前回のオ・ケオとオケとヲケ | 久米の子の部屋  のコメント欄にて、

天地悠久様が、青海神社(福井県大飯郡高浜町)のことなどをご教示くださいました。

 

そのおかげで見つかったラインが、日置神社(高浜町)ー角刺神社ー熊野那智大社です。

最初は、青海神社(高浜町)と飯豊青皇女(天皇)を祀る角刺神社を繋ぐと、ラインが熊野那智大社の方に向かうと思い、グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず に入力してみたのですが、少しズレてしまいます。

 

それぞれの鎮座地周辺の聖地(那智の滝など)でも試してみて、日置神社(高浜町)ー角刺神社ー熊野那智大社が綺麗に繋がると思いました。

 

 

1,日置神社、福井県大飯郡高浜町日置49−23

  35.48479140502801    135.51343720173978
2,角刺神社、 奈良県葛城市忍海322

  34.47671722744883    135.7305113435886

3,熊野那智大社、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
  33.66863928597551, 135.89016272907958

 

 

拙ブログでご紹介したラインには、日置氏が引いたことが窺えるものが幾つもあります。

なので、このライン自体には驚かないのですが、現在の鎮座地は、

「宝徳元年(1449年)に、一瀬氏定幸が神託により今の地の杉谷に遷し奉った」ということらしいのです。

 

ご由緒の詳細を知りたい方には、日置神社 (高浜町日置) | かむながらのみち ~天地悠久~ と、御大典記念福井県神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション 410コマの日置神社の項をお勧めします。

 

私としましては、一瀬氏定幸の情報を更に得たいところなのですが、国立国会図書館デジタルで検索しても見つかりませんでした。

 

宝徳元年(1449年)ということは、「宝徳」という新しい年号を祝うための神託だったのでしょうか…?

文安 - Wikipedia の「文安期におきた出来事」の項によると、

・6年4月29日(ユリウス暦1449年5月21日) - 足利義成(後の義政)が征夷大将軍宣下を受け、6年ぶりに将軍空位状態が解消される(正式な将軍就任は翌宝徳元年)。

とのこと。

 

手掛かりを求め、グーグルマップの距離を測定する機能を使ってラインの付近を見ると、清和天皇 水尾山陵(京都府京都市右京区嵯峨水尾武蔵嶋町)と丹波國一之宮 出雲大神宮( 京都府亀岡市千歳町出雲無番地)との間を通過することが分かりました。

これに、どういう意味があるのか分かりませんが、メモしておきます。

 

それから、日置神社(日置八幡 愛知県名古屋市中区橘1丁目3−21)と安土城が東西に位置することも思い出しました。

記事にし損ねていたのですが、織田一族の発祥地が越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)で、本稿とも少しは関係があることから忘れないように書いておきます。

そして、劔神社は…。この位置関係については、また別の機会に。

 

本稿は、天地悠久様の記事のリブログという形にさせていただきました。

拝読し、探していた答えを教えて頂いたと強く感じたのは、次の箇所です。

◎飯豊青皇女と「青郷」とを結び付ける「青」、これの研究については谷川氏がオハコとするところ。「青」も「飯豊」、「忍」、「多」もいずれも「オウ」という読み。最後の「多」は多氏のこと。多氏が斎祀った総本社とも言える多坐弥志理都比古神社の「弥志理都比古」と椎根津彦命とは、同類であるとしています。

(後略 引用終わり)

 

前回のオ・ケオとオケとヲケ | 久米の子の部屋  で、「久米の中から波多を名乗る人たちが出た時期と理由について、認識し直す必要を感じました。」と書きましたが、『新撰姓氏録』に記される波多門部造の祖は「意冨支閇公」なので、驚きました。

 

「意冨」は(おお, おほ)と読むようですから、「オウ」と同じに考えてはいけないのでしょう。

けれど、波多門部造の系図によると、意冨支閇公は飯豊青皇女と近い時代の人物なのです。

このことも、また別の機会に書く予定です。

 

今回学んだおかげで、金札宮で天太玉命が祀られる理由は、ライン引きの日置氏の祖だからかもしれない、と思いつきました。ハズレかもしれませんが、忘れないうちにメモしておきます。

 

天地悠久様、今回もありがとうございました。