「波多門部造」から想像される久米の歴史14
今回も、前々回の淡道国造と久米安芸守の居住地跡 | 久米の子の部屋 に引き続き、淡道国造に定められたとされる矢口足尼について書いてみます。
その理由は、「イザナギの神を祭ったのは、矢口足尼らしい」と書く「歴史の誕生 第1巻 (神話の風土)」という本を見付けてしまったからです。
大阪読売新聞社 編 浪速社, 1967歴史の誕生 第1巻 (神話の風土) - 国立国会図書館デジタルコレクション の18コマの最後から始まる「淡路のイザナギ」と「さすらいの神話」を引用します。
淡路のイザナギ
イザナギの神は国土の基礎固めの仕事を終わると、幽宮(かくりのみや)を淡路に建て、静かに永遠にこの世を見守る。その地、兵庫県津名郡一宮町多賀の伊弉諾神宮は、郡家港の海岸から離れた松林の中。「修理固成」の大灯籠やコマイヌや桧皮 (ひわだ) ぶきの神殿は新しい。聞けば明治までは 皇室とも縁がうすく、神仏混合といっても寺が主で、イザナギさんはほんの間借り。神仏分離騒ぎで 坊主がなにもかも持ち去り、神宝は社殿修理の棟札 (むなふだ)だけとなった。
「イザナギさんは西から“天の浮き橋”舟でやってきた文化の進んだ種族と考えています。気候風土のよいこの島に落ち着いて一夫一婦の道を開き、全国各地の開拓を進め、第二の故郷であるここに帰って永眠された。それが国生みの神話なのでしょう」― 明治初年には境内から古墳がみつかった話をあげて、弥宜(ねぎ)さんは“神は人なり”を強調する。
だが、イザナギの神を祭ったのは、初代淡路の国造(くにのみやつこ) 矢口足尼(やぐちのすくね)らしい。矢口氏は伊予からきた海人族。明石海峡の潮流が激しく、交通路が島を横切っていたころに、播磨灘と大阪湾をにらむ多賀を占拠していた。大八島を生む話はたとえば四国は讃岐、阿波、土佐、伊予の四つの顔を持っているというぐあいに正確で、具体的だ。 どうやらこれは海に生きるかれらが、子どもたちに地理を教える説話だったらしい。それを裏付けるように海のにおいが濃いので ある。
さすらいの神話
矢口氏は世襲の国造。淡路全島を支配し、朝廷の干渉を許さなかった。ところが律令(りつりょう) 時代になると、朝廷の力が伸びてきて南部穀倉地帯の三原平野に大和から国司が派遣され国府や米を収蔵する倉(みやけ)国衙(くにが・官庁街)を作る。かれらは「淡路一の宮」の伊弉諾神宮に対抗するため、大和坐 (やまとにいます) 大国魂神社のご出張を願って「二の宮」に祭り上げた。魚を取り、塩を焼く生活にとどまっていた矢口氏は無視され、しだいに勢力を失って、国都も郡家(こおげ)に転落、海人族の神話を伝える天語部(あまのかたりべ)は各地に流浪する。そして神話も宮廷に吸収される。
(引用終わり)
伝聞と自説との区別がされてなく、おまけに著者が不明でしたので、引用することを迷いました。
けれど、どうも気になり検索してみると、読売新聞大阪本社社会部 編 社会部史 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション が見つかり、鈴木敬一という記者による連載であったことなどが分かりました。
やはり、いままでの歴史物の常識をくつがえし、天衣無縫ともいえる取材、大胆な仮説による書きっぷりに「こんなのは歴史ではない」という批判も出たそうです。
一方、京大・上田正昭助教授(現教授)は「古代の伝承は、いまなおふるさとに生きている。この書物の魅力は、実感としてそれを社会部記者の眼と足とが、大胆に歴史の謎をとらえている」と語り、 大阪市大直木孝次郎助教授(現教授)も「日本の各地に 残る古代の伝説のあとを丹念に足で調べたのが本書だ。思いがけない事実の発見に専門家も驚くことが少なくない」と賛辞を贈ってくれたのだそうです。
それは、歴史の誕生 第1巻 (神話の風土) - 国立国会図書館デジタルコレクション の巻末にも載っています。
上田正昭氏は、拙ブログにとりましては、「大王の軍事集団としての久米部の実質は、六世紀に入ると急速に没落した」と記されている方です…。
鈴木敬一氏の記事を引用した理由の中に、「矢口氏は伊予からきた」と書かれていることがあります。
何故ならば、 矢口足尼(宿祢)は、波多門部の系図において伊予主足尼の弟であるように記されていますので、伊予にいたとしてもおかしくないでしょう。
伊予で国造の仕事を学んでから淡路島の国造を務めるのは、ありえることだと考えました。
諸系譜 第2冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション に収められている波多門部の系図。104コマ左ページと105コマ右ページを貼り合わせました。
天津久米命の子孫の系図は、諸系譜 第2冊 - 国立国会図書館デジタルコレクションに3種類収録されています。
〇「久米宿祢」は42コマ~
〇「山宿祢 山部宿祢也」は54コマ~
〇「波多門部造」は104コマ~ですが、
「波多門部造」は諸系譜 第15冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション の8コマ~にも載っています。
読み辛くて悔しい思いをしていたのですが、宝賀寿男氏 編著古代氏族系譜集成 中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の93コマに「久米氏族-天津久米命後裔」、95コマに「山部宿祢、山宿祢」を見付けました。
そして、近藤敏喬 氏編古代豪族系図集覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション の59コマに「久米・松岡」の系図が、201コマに「山部・山・三木」、209コマに「波多門部・波多 淡道国造家」が載っていることも分かりましたので、大変嬉しく思っています。
ただ、残念ながら、両氏の著書とも完全採録というわけではないのですが。
矢口足尼(宿祢)については、今井啓一 氏著天日槍 : 帰化人第一号神功皇后外祖母家 - 国立国会図書館デジタルコレクション の53コマに次のような説を見付けました。
(前略)
さらに国造本紀によるならば、仁徳朝、淡道国造に定賜されたという矢口足尼を天孫本紀に見える出石心命の子 大矢口宿禰命とすれば、淡路国造も亦、物部氏族と思われる。
(後略 引用終わり)
第5代天皇である孝昭天皇の大臣が、第16代天皇である仁徳天皇が定賜した淡道国造の親であるはずないことは、國學院大學文学博士で、当時は大阪樟蔭女子大学教授でいらした今井啓一 氏はお分かりだったはずです。
6コマからの「はしがき」には、次のように書かれています。
古代史の研究には、幾多の制約がある。即ち文献資料は限られ、遺蹤・遺物は間接的・断片的であり、口誦伝承は訛謬粉々、地誌類も多くは後世の編纂で全面的には信じ難い等々。
而してそれら記され、遺され、伝えられる土地を、実際に採訪旅行して所謂「歴史を脚で考える」ことをモットーとして、わたくしはここ二、三十年間を経たのであった。
わたくしの研究に、若干でもメリットありとすれば、それば「脚で考えた歴史」である点に あるだろう。
(後略 引用終わり)
そして、9コマには次のように書かれています。
(前略)
さて現存する限りにおいて、わが国最古の文献的資料である古事記や日本書紀は、正紀第八世紀の始めに編纂~然も或る意図をもって~されたものであって、多分に伝承的性質を持ち、年次其他についても錯誤や混乱を含むものであることは申すまでもない。
(後略 引用終わり)
「実際に採訪旅行して」という点が、鈴木敬一記者と共通しています。
矢口足尼が、神皇産霊尊の9世孫として、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に記されていることに触れていないについては少し不満があるのですが、私などは、実際に採訪旅行している方々からの貴重な情報を享受しているわけですから、真っ向から否定する資格はないな、とも思いました。
すると、矢口足尼を物部氏族とする系図があることを思い出すことができました。
矢口足尼を物部氏族とする系図とは、兵庫県の〝矢野神山〟と山部(久米)について | 久米の子の部屋 でご紹介しました川岡勉 氏と田中弘道 氏の共著『天徳寺所蔵 「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について』です。
愛媛大学機関リポジトリ で現在ダウンロードできるのですが(多分、一時出来なくなっていたと思います)、10コマに伊興主命が物部多遅麻の子として記されていますので、一部分お借りしました。
一二代と記されている乎至命のところに書かれていることを、私は正確に理解することが出来ないのですが、データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム 「一 古代の瀬戸内海と伊予」のページの「私的交易圏の形成」の項を見付けることができました。
(前略)
伊予国についても、たとえば『日本書紀』景行天皇五一年秋八月条に、日本武尊が吉備武彦の娘であった吉備穴戸武媛との間に讃岐綾君の始祖武卵王と伊予別君の始祖十城別王をもうけたとあり、このような系譜伝承が形成される背景には、伊予と吉備を結ぶ人々の頻繁な往来があったとも考えられている。また同じく清寧天皇二年冬一一月の条には、山部連の祖伊与来目部小楯が播磨国司として同国に赴き、赤石郡内で億計・弘計二皇子を発見したという有名な説話がみえる。
(後略 引用終わり)
『天徳寺所蔵 「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」』においては、三人の「小楯」が記されています。
大水口命と大矢口命の母と記される新河小楯姫、「十七代 久味部 号熊武小楯 伊予大領小子連」、 「二五代 来目麿 来目部小楯 播磨大椽」で、十七代と二五代は11コマに載っています。
新河小楯姫について少し知っておこうと検索して見つけたのが、古代氏族研究会公認HPの中の(物部氏族系譜関係の応答)wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek-outou.htm です。
読むというより一応目を通していく中で、気になったのが次の箇所でした。
(前略)
初期物部本宗家が通婚した活目邑の古豪族を仮に「活目氏」としますと、これは系譜不明ですので、推定を試みました。
活目(活馬・生馬とも書くが、平群郡生駒のこと)の地名が「生馬郷、式内社生馬神社」として出雲国島根郡にあり(現松江市生馬)、『出雲国風土記』の生馬郷条にその先祖らしき者(八尋鉾〔美称か〕の長依日子)が見えますから、物部氏とともに出雲から到来した部族(物部同族か)という位置づけになるようです。
(後略 引用終わり)
『出雲国風土記』に八尋鉾長依日子は神魂命の子と書かれていることは、省かれていますね。
古代氏族研究会公認HPにおける応答は、宝賀寿男会長の了解を得て、会員の”樹堂”(移転を契機に樹童から改名。数人の複合体)氏がされているということですが、署名が出来ない宝賀氏の考察ではないかと、私は感じています。
活目の読みに「くめ」が含まれていることが、私としては当然気になります。
なので、「生馬郷、式内社生馬神社」の位置をグーグルマップで確認しました。
生馬神社(島根県松江市東生馬町235)から松江市法吉町の久米地名まで、直線距離で約1.5kmです。
法吉神社の「社頭掲示板」の項を一部お借りします。
(前略)
謹で神代史を按ずるに宇武加比比売命は神魂命の御子に坐して大己貴命(大国主命)八十神の災いに遭い坐せり時に大命を蒙りて其御痛所を治療し給はん為支佐賀比比売命と倶に降臨し後此地に移り坐して経国の大神業を翼賛し給いつつ鎮まり給えり。
(後略 引用終わり)
『出雲國風土記』では宇武賀比売命と記されたうえで神魂命の御子神であると記されており、神魂命の子孫という点が、 右京 に居住する久米直の『新撰姓氏録』における記載と共通しています。
法吉町には久米遺跡がありますが、久米遺跡 - 全国文化財総覧 によると、奈良から平安が主な時代とされています。
なので、宇武賀比売命と、久米の人々が法吉のあたりに住むようになったこととは、無関係なのかもしれません。
けれど、上でも引用した(物部氏族系譜関係の応答)wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek-outou.htm の中で、新河小楯姫の名を系図に記す近江の三上祝に対する考察が気になりましたので、aを全て引用します。
(前略)
(1) 古代氏族の「母系」に着目することは、たいへん重要だと思われますし、かつ本問は鋭いご質問であり、答えに窮するところもかなりあって長考しましたが、いま考えられることを以下に記します。
a そのなかでも、議論の最も核となる人物が「大矢口宿祢」となります。神武天皇から崇神天皇にいたる中間四代の うちで、三代も続けて物部氏が近江の三上祝の娘と婚姻を重ねます。これが記されるのが『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、中田憲信編の『諸系譜』のなかで、この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。その当該部分を文章にしますと(少し分かりにくいかもしれませんが、一応記してみますと)、神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の①川枯彦・川枯姫、次の世代の②坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。
『諸系譜』や『百家系図』には三上祝の家系について数本記載がありますが、そのなかで最も詳しい記事があるのが上記の『諸系譜』所載の「三上祝家系」です。鈴木真年が原本を書写して上掲書に記したとき、上記の記載が原本そのままだったのか確かめようがありませんが、「大矢口宿祢」を除いては、 とくに問題ありません。ところで、この「大矢口宿祢」は十市部首系の中原朝臣姓である「押小路家譜」には、出石心の弟に記載されており、これに影響されて位置づけが変えられたのではないかと疑われる要素がないわけでもありません。
一方、「天孫本紀」系譜には、彦湯支命が淡海川枯姫を妻として「一男(出石心のこと)」 を生み、出石心が新河小楯姫を妻として大水口・大矢口兄弟を生んだと記されて、この系譜からは大祢・内色許男の二代が欠落しています。この関係では、「三上祝家系」は「天孫本紀」系譜に比べて、総じて内容がすぐれていると思われますが、「大矢口宿祢」についてだけは「天孫本紀」系譜のほうが妥当だと考えま す。
というのは、①大水口・大矢口という形の名前の対応は、上古の同母兄弟の名づけ方に頻出する傾向であったこと、②大水口宿祢は『書紀』崇神段 に見えており、大矢口宿祢のほうは崇神朝の出雲討伐に参加し西伯耆や因幡にも後裔を残したことで、ともに崇神朝という同時代人であったこと、③淡海川枯姫が生んだのは「一男(出石心のこと)」と「天孫本紀」に見えること、があげられるからです。
(後略 引用終わり)
aを全て引用したのは、新河小楯姫が大矢口宿祢の母であるほうが、三上祝と久米との間に特別な関係がある可能性が高まるように思ったからです。
それから、「『大矢口宿祢』は十市部首系の中原朝臣姓である『押小路家譜』には、出石心の弟に記載されており」というのも載せたかったからでもあります。
なぜならば、出石心という名が、波多門部の系図に矢口宿祢の兄として記されている猪石心と似ていることが気になっているからです。
ちなみに、諸系譜 第28冊 - 国立国会図書館デジタルコレクションの84コマからが御上(三上)祝家系図のページで、86コマに新河小楯姫命の名前が記されています。
三上祝と久米との間に特別な関係がある可能性が高まる可能性を、また地図で探してみようと思いました。
(物部氏族系譜関係の応答)の中の「(3) 物部氏と母系氏族・通婚先」に、
「近江の三上祝は、物部氏族と先祖・天目一箇命(天御影命) を共通にする近江の名門で、野洲郡の御上神社を歴代奉斎し、琵琶湖の東側地域を広く領域にしていました。」と書かれていますので、とりあえず御上神社の位置をグーグルマップで見てみました。
すると、御上神社と大田神社が南北に位置していることに気付き、偶然ではないように思いました。
船木氏と大伴(久米)との関係 | 久米の子の部屋 から何度か書いてきたことですが、大田神社(滋賀県高島市新旭町太田1468)は、この地で大伴氏と久米が共に暮らしたことを伝えています。
拙ブログは、 古代においては大伴氏と久米氏は同族だった、という宝賀寿男氏の説に従っています。
御上神社と大田神社が南北に位置していることで、新河小楯姫の周辺に波多門部の系図と似た名前があることとは、何か意味があることが想像される。
これで、本稿を締められると思いました。
ところが、御上神社と大田神社とを繋ぐラインの先に、敦賀市の地名があることが気になり、試しにラインを引いてみたら氣比神宮と繋がってしました。
そして、より綺麗に繋がったのは、御上神社より三上山の方でした。
1,越前國一之宮 氣比神宮、 福井県敦賀市曙町11−68
35.65478187680676, 136.07472218717672
2,大田神社、 滋賀県高島市新旭町太田1468
35.33782925092444, 136.05514011097404
3,三上山、滋賀県野洲市
35.04992075763822, 136.03807183562353
もし、このラインが意図されたものであるとすれば、どういう繋がりを示しているのでしょうか。
幾つかのキーワードとなりそうなもので検索しましたが、ピンとくる結果に出会いませんでした。
そこで思い出したのが、大阪の「くめ」地名が繋げるラインについて | を書くことで見付けた、氣比神宮に向かう「くめ」地名の繋がりでした。
何故、氣比神宮に向かってしまうのか。
以前は知らなかったことを学んだり、新たにラインを見付けましたので、今回はここまでにして、別の記事としてアップする予定です。



