怪我‥肘をやってしまった。前々から気にはなっていたけど、他の連中に差をつける為に、過度な練習を続けてしまった。肘の軟骨が剥がれて神経を傷つけ、痛みが引くのは早くても3ヶ月。完璧に治ることは一生ない。そうはっきり医者に言われたことは今でも記憶に残っている。
そのことを隠すこともできず、野球推薦の話しは全て水に流れ、絶望しか残らなかった。それでも思っていたことは、普通の人間にはなりたくはない!!! 普通に高校に行って、普通に就職して、普通に死んでいく。そんな人生は嫌だ!
ならどうする?
僕には野球はもうない。野球以外に何が残る?野球しかしてこやんかったのに何ができる?
考えてもなにも出てこなかった。
んじゃ今頑張れば誰でもできることはなに?
‥
勉強。
勉強は苦手だった(笑)。でも、もう僕には勉強しか残ってない。
次の日、塾に通った。(11月)受験までもう時間が無い。当時5教科合計150点未満だった僕。死ぬ気で勉強した結果なんと! 学年末テストでは5教科合計450までUP⤴︎振り返るとあの時のしんどさは二度としたくない。そう思うくらい辛かった。
そのおかげで進学校の私立高校に入学が決まり、晴れて高校生となった。
エスカレーターで大学に行く為には、まず内部の競争が鍵を握ることになる。内部の成績上位者から、志望校の学部を選択できる特権が与えられた。中学時代、僕より成績良かった連中は息抜きというか少しサボってたかはわからんけど、対照に、負けず嫌いの僕は高校受験の時の勢いで一学期、二学期を乗り切り、成績が学年2位の位置にいた。
しかし! 当時僕の家庭は決して裕福な家庭では
なかった。普通の生活は苦なくできてたけれど、私立高校に通える程の余裕はなかった。それでも奨学金を借りて、大学に有利に行く為に、親が膨大な学費を払ってくれていた。
そんな姿を見て、少しでも学費のたしにしてもらう為にアルバイトをしていた。
うちの学校は進学校。もちろんアルバイトは厳禁だった。勉強とアルバイトの両立は決して楽ではなかったが、なんとか両立していた。両立してるからといって許される訳ではない。学校の先生がバイト先に来てばれてしまった。
結果、停学処分をくらってしまった。いつかばれるとはわかっていた。でもアルバイトをしなければ学費を払えない。そうなれば学校に行けない。学校に行く為にしていたことなのにまさか停学になるとは思ってもいなかった。
うちの学校は一度でも停学になると指定校推薦、いわゆる最初に言った特権が無くなってしまうのだ。なんの為に高い学費払ってこの学校来たん?なんで頑張ろうとした途端こんなんばっかなん?
神様は僕にどれだけの壁を作ってくるん?
思春期の僕は、この逆境を乗り越える
精神力はなかった。
当然、成績はみるみるうちに低下した。他の子との差が半端なくなり、それにも目を向けたくなくなり、学校もサボリがちになった。
ここからしばらく、アルバイト:学校→9:1の生活が続く。
3年に上がる頃、おかんに大事な話しがある。と、言われ緊急家族会議が開かれた。そこではおかんと父ちゃんの素直な気持ちを聞かされた。
内容は、家の為にアルバイトして、家計を助けて
くれてほんまにありがとう。ほんまに助かってるし、自慢の息子。裕福な家庭じゃなくて、お金のことばっかり考えさせてごめんね。と、うるうるの目で言われた。
それを見て僕も泣きそうになった。
当時の僕の給料は15万も無いくらい。学校行きながらだし、決して多くは無かったが、そこから携帯代などを引いても1/3はおかんに渡していた。でも、別にこれが苦では無かった。
だって今月の給料! って言って渡したら、本当に嬉しそうにありがとう。って返してくれてたから。別にお金がもらえて単純に嬉しいとかじゃなくて、少しでもってゆう僕の気持ちにオカンは本当に喜んでくれて、それを毎月見るのが当時の働き甲斐だった。
そして話しはまだ先があった。家のこと考えてくれるのはほんまに嬉しいねんで?でもな、おかんと父ちゃんがあんたに1番してほしいことはアルバイトじゃない。卒業して大学に行って欲しい。
わかってはいたけど、やっぱりそうだった。
1つ上の姉が地元でもかなりのやんちゃだった為、僕はその姿を見て育ち、親が責任を取る所をいつもそばで見ていた。僕も悪い道にそれそうな時もあったが、その時の親の顔を思い出すとがっつり踏み込むことはできなかった。(それで正解なんですけどね←)
そうゆうこともあって、いつも悪さをするのも中途半端。勉強も結局長続きしない。野球も怪我で挫折してやめた。
そう、僕は何か1つのことをやり遂げた記憶もないし、そんな根性もなかった。
姉があんなだから、親からすればせめて僕だけは大学まで行って欲しいと強く思っていた。
再婚などもあり、父方の親族に認めてもらう為の、おかんなりの精一杯のやり方だったかもしれない。だからこそ卒業して大学に進学することを
約束して欲しいと言われた。
僕は親が大好きだ。
僕をここまで寝る時間も惜しんで働いて育ててくれたおかん。血も繋がってないけど、血が繋がってる以上に僕の将来を考えて、厳しく教育してくれた父ちゃん。
その時に初めて父ちゃんの口から
父親の居ない家庭っていうのが悔しかった。父親が居ないから礼儀もできない。って世間様に思われながら生きていく姿を見て歳をとっていくことが耐えられへんかった。父親とは血の繋がりもないけどここまで常識はわかってます。って思われながら育って欲しいとゆう一心で僕を育ててくれたと。
僕は泣いた。鼻水が止まらないほど泣いた。
当時、別にやりたいことがあった訳では無いが、高校卒業ということが今できる親孝行だと信じ、
次の日からきちんと学校に行くことになった。
学校をサボってた期間を埋める為にはこれまた並大抵の努力ではなかった。
当時、英語が得意だった僕はグローバル化に特化した大学を視野に入れていた。指定校推薦が無くなった今、自力の学力で合格しなければならなかった。
そんなこんなで担任の先生は家庭事情などを理解してくれ、今思えば多少なりともひいきの扱いを受け、遅れている提出物などもまとめて提出すれば減点をしないでくれたりと、約1年分の提出物と共に受験勉強を進めた。
しかし、高校という場所は出席日数というものがある。どう考えても出席日数に足りていなかった。=留年。とてもじゃないがもう一年学費を払い、学校に行く経済的体力はなかった。それを担任の先生は理解していた。
他の教科の先生に頼み混んでくれて、土日を僕のためだけに授業をしてくれ、それを出席日数にカウントしてくれたのだ。公立高校だとまずありえないことだが、私立高校だからこそのやり方だったのか。いや、それでも生徒1人の為だけにここまでしてくれた人はいないだろう。だから僕は高校時代、先生にかなり救われた。
そうもあって、教師を目指す志が少し芽生えていた。野球をしていた時に、体育教師を志があったが、別の理由で目指すことになるなんて想像もできなかった。
そんな仮定も経て、無事卒業した。親はさそがし喜んでいた。
しかし、僕はまだ闘いが終わった訳では無かった。ぼくの通っていた高校は1月頃に卒業式で、受験は後に控えているのだ。でも、やってきたことを全て出し切り、一流大学と呼ばれる大学とグローバル化に特化した大学に2校とも合格した。
やっとこれでひと段落。
そう思った矢先に
またしても事件が起こった。
神様はまだ僕に試練を与えるのか?
こうもうまく事が進まないことなんてあんの?
身内(親族)が続々に倒れた。まずは、母方のばあちゃん。悪性のガンが見つかり、命も危うかったが、なんとか一命はくいとめた。それでもしばらく入院生活をしなくてはならなくて、抗がん剤治療も同時に始まった。
次にほぼ同時期におかんの兄である叔父が腸が破裂して倒れた。もともと持病があって、再発という形だった。これまた入院生活を強いられることになる。
次はまたしても同時期に父方のじいちゃんが倒れた。一命はくいとめれず、亡くなった。父ちゃんの涙は今まで見たことが無かったが、この時初めて父の涙というのを見た。
両親は葬儀の段取りや親族への報告、入院手続きや看病などに追われていた。
母方のばあちゃんの面倒は、ずっとおかんと叔父の2人で見ていたが、叔父が倒れてしまった為、全ておかんが対応することになり、父ちゃんは長男なので全て対応を請け負っていた。
その頃、妹はまだ中学に上がったばかりでなにもできず、姉はかなり省略すると中学を出てからずっと海外を飛び回り、旅をしていた。なのでその負担も当たり前僕にも回ってくる。書き方的に嫌々に聞こえてしまったら誤解があるが、僕自身もどうしていいかわからず、悲しみとやらなければいけないことへの葛藤に苦しんでいた。
そうは言っているうちに、大学の入学手続きの締め切りがもうわずかのところまでせまっていた。
本当に大学に行ってもいいんかな?
もちろん大学は、高校の時より初期費用と呼ばれる入学金や、施設費などが高額であった。親族が続々と倒れ、入院費や治療費、葬儀代などすべてうちの家族が負担していた為、経済的にもしんどいはず‥
でもやっぱり自分の考えだけでは判断できず、家族会議を主催した。
もちろんおかんの意見はGO。
借金してでも行かす。と、一点張り。
しかし、父ちゃんは冷静だった。
子供にお金の心配されるほど惨めな思いはないけど、現状しんどいかしんどくないかで言ったらかなりしんどい。でも、無理してでも行く価値は確かにある。だから本当に僕が大学に行きたかったら全力で応援するし、お金もなんとかする。
そう言われた。
でも僕は耐えられなかった。
ただでさえ今しんどいのに、そこに上乗せで僕の為に使うお金を引っ張ってくるのは心が痛すぎた。親からすれば、本当に大きなお世話かもしれないが、今僕が社会に出て、家計を安定させたいという気持ちが強くなっていた。高卒で社会に出たとしも今の世の中の初任給はたかがしれてる。
わかってはいるが、今はそのしれてるお金でさえも欲してした。
当時のアルバイト先では勤続のおかげか、責任者を任されていた。上司には家庭状況なども相談しており、もし大学に行かないのなら役職をつけて
くれると言われていた。
もちろんオカンは大反対。
父はみんなより早く社会に出ても学ぶことはいっぱいある。男はこれから一生働いていく身やから
覚悟があるんやったら大学に行けと強制はしやん。
僕は決めた。
大学には行かずに社会に出る!!!
そして、微力だったとしても家を支える!
長男としての責任というかそんなものが僕を強く動かしていた。