(再)〜ここまでの経緯〜完全版 3 | 矢吹ライトのあたりのために打つべし!

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パチンコ攻略マガジン攻略軍団 矢吹ライトのブログ

だが、しかし!

学生時代に少しやんちゃした事件が今になって浮上したのだ。大変お恥ずかしい話しなので省略させて頂くが、その結果お金がもっと必要になり、
その時初めて反省と後悔でいっぱいの気持ちになった。1つ言えることはその件が無くとも、僕の稼ぎでは満たされず、現状は変わらなかった。

父ちゃんの稼ぎが少ない訳ではないが、支出が大きすぎて追いついていなかったのだ。

アルバイトは、卒業と同時に責任者、少しして副店長まで昇格していた。月給は18歳、19歳がもらえる給料には充分すぎるくらいもらっていたが、
それでもしんどい状況だった。

そこで僕は覚悟を決めた。

掛け持ち。

昼は仕事で、夜はパチンコ屋で働くことに決めた。

当時はパチンコとスロットを遊びでやるくらいで、勝ち方ももちろんわからなかったが、楽しさは当時から体感していた。

店員として働き始め、少ししてプロ集団と呼ばれる人達が連日同じ機種ばかりを打っていることがまず目についた。この時、この人達は仕事してないんかな?なんで毎日パチンコできるんかな?と、疑問を抱き始めた。

その疑問が1つのみならず、複数抱いた結果、パチンコは勝ち方がある。と、気付きはじめた。

稼ぎの方は、掛け持ちのおかげで、かなり家が落ち着いた。同時に僕の体の疲労はピークに達していたが、それ以上に両親は頑張っていた。

少しして、昼の仕事をしていると、本部の偉いさんが店回りの為、自店に尋ねてきた。そこで、僕のシフト状況を見て指摘された。そう、パチンコ店は4時半から遅番勤務だった為、3時には昼の仕事を退勤していたのだ。

それは副店長としてはありえないことで、直属の上司の承認だけで行っていたのだ。

すぐさま降格し、アルバイトになった。

この時点で僕は社会の目というか、高校も出たのにフリーターという現実が耐えれなくなった。

お金のことで落ち着いたのも理由だが、なんでもいいので正社員として働きたかった。

そんな話しをパチンコ屋の店長などと話すと、社員採用してくれるという話しが転がりこんできた。

業務的にも楽しかったですし、パチンコ屋の裏を知るうちに勝ち方を徐々に理解してきたし、パチンコの深さ(正攻法と呼ばれる)を追求したかった。

そんなこともあって、お世話になった昼の仕事は辞め、パチンコ屋の社員になった。社員になって、より数字的+経営的にパチンコのいろはを学びどうすれば店の利益になるのか?どうしたら打ち手の利益(還元)になるのかなどの理屈を学び、実際の公式というか、方程式というものを学んだ。

調整的にやはり店が得することがほとんどではあるが、その中でも2割~3割は打ち手に還元する仕組みがあった。

それをプロ集団は見逃さない。

そんな姿も店員の立場から見て、やっぱりパチンコは勝てる。そう確信した。

実際に自分がプライベートで打ちに行っても勝てる自信があった。こうなればもうパチンコがおもしろいとかのレベルではなく、生活の一部としての考えがあった。

当時から負けず嫌いの性格の為、同期の社員とのライバル心がとてつもなく強く、残業なども進んでやっていた。

早く上にあがりたい。

主任→店長→役員→社長

という人生設計を本気で考えていた。

そんなこんなで入社半年が経った頃に、東京に初出店が決まった。そこの立ち上げメンバーを本部から招集があり、そこに選ばれる=有望株(期待)であった。結果は若さと勢いを評価して頂き、そこの立ち上げメンバーに選ばれた。これが初めての上京だった。

当時19歳。1人暮らしもしたことがなく、ましてや見ず知らずの土地に知り合いがまったくいない環境。正直めちゃくちゃ精神的に辛かった。でも、出世のために僕はひたすら働いた。

当時の勤務時間というと朝の6時には出勤し、夜中の4時過ぎに家に帰ってくるという、ありえないくらいの労働時間。しかし、グランドオープンの店の社員なんて、大抵そんなもんだ。

楽して成功なし。

やることが次から次へと出てきて終わりなどない。逆に接客業としてやることが無くなったらそれこそ致命的。ともあれ、そんな努力も実り、無事グランドオープンは成功した。

しかし休みなどある訳がない。いろいろセクションで決めたことも、営業が始まればより良い方法を考え、そして行動していく。くどいようだが、
接客業に終わりはない。

でもその頑張りはもちろん上司は見てくれていた。

そんなある日珍しく朝起きれなくて寝坊をしてしまった。やっぱり疲労がたまっているんだと思い、反省はしていたもののあまり気にしなかった。

それからはというものの毎日体が重くて、だるくてなにもやる気が起きない状態が続いた。

上にあがるぞって気持ちだけで今日を生きるのに必死だった。例えるならしぼっても何も出てこない水分が無くなったスポンジのようだった。

そんな状態はもちろん長続きするはずもなく、気付いたら病室の中にいた。

栄養失調と過労で倒れたのだ。点滴と薬によって
体調は良くなったが、上京当初60キロあった体重が50キロまで落ちていた。(身長175センチ)

そりゃ倒れるわって自分で鼻で笑うも、完璧に働くメンタルが低下していた。

当時の感情は、もう大阪帰りたい。逃げたい。

上にあがりたいって気持ちはあるけど、もう無理や。耐えられへん。

もう一度お尻叩いて頑張る選択肢は導けなかった。

そのまま退社し、大阪に逃げ帰った。

退社して気付いたが、目の前のしんどさに逃げたくて逃げたくてたまらなかったがいざ、逃げ帰ったところでやりたいことが見つからない。そう、やりたいことがなくてこの先どうしよ?という不安と後悔で毎日が何も充実しない。

その時初めて、なにか一つのことに向かって全力で頑張ることって素敵なことやったんやなって感じた。

だからといってあの時は逃げたくて逃げたくて‥

ここが自分の弱さ。

しかし僕が逃げて帰ってくることは両親はわかっていたという。親は子を良く見てるよ。

社会の厳しさを1番わかっている父ちゃんからすれば、考えが甘いのも見透かされていたし、そのしんどさを何回も乗り越えなければならないってこともそうだが、今子供を授かって父親になっていたとしたらもちろん嫁さんと子供を食わせていけない状態である。こうゆう自覚がまったくなかったし、自分のことしか考えていなかった。

結論今は1人身やからそれでも許されるけど、1人じゃなかったら引きずり回してでも東京返してた。と、言われた。

それからはというものの、やっぱりしたいことが見つからず毎日朝から晩までパチンコ屋通いが始まった。

当時の立ち回りは基本的に海シリーズ中心に稼働しており、強い日にはスロットのイベントやグランドオープン巡りをしていた。

当時は正攻法という単語は知らなかったが、正攻法と社員時代に勉強した内容を打ち手側で実戦し、順調にプラス収支をあげれていた。

当時よく行っていたホールではテレビの撮影などでよく使われていた。収録中であろうがやることは何も変わりはない。そんないつもと変わらず
ぶん回していたら、1人の男性に声をかけられた。

のちに知ったパチの穴のプロデューサー的な人だ。

この番組は素人がお笑い芸人FUJIWARAの
藤本さん(フジモンさん)と出玉勝負をする番組。その素人として出演しないか?という内容だ。

テレビに出たこととか無かったので最初は思い出作り的なノリで出演した。
その時の解説はヒラヤマンさんだった。


当時は演出など正直興味がなかった。しかし、演出の解説を間近でヒラヤマンさんにしてもらい、
演出の楽しさを知った。法則性であったり、期待度を先読みで知ることによってより、パチンコが面白くなる。

この時から僕も出来るのであれば解説する側の人間になりたいと思い始める。

その日はそのまま収録を終え、良い思い出ができた。明日からまた現実に戻るのか。と、少し寂しさを覚えた。

それから約3ヶ月後、予想もしなかった事が起きた。

今までパチの穴に出演した素人と全国で募集をかけてライターオーディションが行われるというのだ。

出版社はパチンコ攻略マガジンとパチンコ必勝本climaxである。

応募人数は200人を超えた。

僕は番組に一度出ていたので一次試験の書類選考は免除となった。

二次試験は面接だった。特に気負うことなく、普段の自分の立ち回りや、パチンコとは?など自分の考えをとにかく話した。

これで落ちたら仕方がない。

縁が無かっただけ。そう割り切るしかない。失うものなんて何もないからただガムシャラに挑んだ。

合格発表は合格者に後日発表ということだった。

連絡を待っても来ない日が続き、内心諦めかけてたその時!

知らない番号からかかってきた。

合格通知だった。

しかし喜ぶのはまだ早い。

次に最終試験がある。まだ応募総数200数名から
7人に絞られただけ。

ファイナリスト7名の中からドラフト制で各雑誌の編集長が指名する。もちろん誰にも札が上がらないこともありえる。

最初の試験は各自でオリジナルの企画を考え、プレゼン。

僕はプレミアム引くまで帰れまテン。という企画をプレゼンした。

手応えはイマイチ。

パクリじゃ‥ない‥笑

次の試験は1000円実戦。1000円でおこった演出を己の全てを出しきり解説。

僕は1000円で4回転しか回らず、演出というか、注目ポイントと裏ボタン的な話ししかできなかった。

残す最終試験は花の慶次をフジモンさんを入れた3人で実戦し、各自で解説。僕は前半のふがいなさを取り返す為に喋りまくった。

もっと自分なりにできたかな?と思う趣旨はたくさんあったが、やることはやった。

運命の結果発表!

自信は無かった。

同じファイナリストが先に合否を聞き、不合格の者は涙する姿もあった。たった1日かも知れないが、同じ目標を持って戦った仲間意識というものが芽生えていた。

僕の出番。

会場は思った以上の緊張感に包まれており、少し足がプルった。

パチマガ攻略マガジンか?

パチンコ必勝本climaxか?

不合格か?


札が上がった。


パチンコ攻略マガジンだ。

会場が大きな拍手に包まれた。

僕は一瞬なにが起きたのかわからなかった。

合格したのだ。

他のファイナリストは必勝本climaxから1人が合格した。

こうして内定を勝ち取ることができた。


それから上京の話しが進み、家を探しになど何回か大阪→東京を往復し、とうとう上京した。

さて、気になるのはどうして編集長は僕を指名したのか?

その疑問はもちろん伺いました。

理由
編集長「二次試験の面接の段階で決めてた。1人だけ良く喋る子おるし、自己紹介した段階で決まってた。」と。ここが良かったから。とか、具体的には聞けなかったけど、何か光るものを見つけてくれたのではないだろか?←自分で言うな(笑)。

同じく必勝本climaxに指名された子は夏野仁くんだ。今は主に編集のお仕事から始めて下積みを頑張っている。同期として負けたくはないですが、
応援しています。

さて、上京してからどうするかが1番の問題であった。パチンコで食うにしても店情報も何も無い状態で0からのスタート。さすがに金銭的に不安過ぎるのでアルバイトをしようかと悩んだ。

そのことを編集長に相談すると攻略軍団に入る道を提案してもらった。採用当時はライター契約だった為、完璧に個人事業主。いわば自分で仕事を取らなければいけなかった。今活躍しているライターさんは大抵がそうだが、無名の僕がいきなり仕事を取るということは容易ではなかった。

攻略軍団で仕事をしながらもっとパチンコの知識をつける時間を与えてもらったのだ。

しかし、攻略軍団に入るのは簡単なことではない。パチンコについての試験を突破しなくてはならなかった。

試験の内容はここでは自粛するが、その一部で軍団長のドテチンさんと助六さんと面接する機会もあった。テレビでしか見たことが無い人が今、自分の目の前にいる。緊張して全然喋れなかったが、ドテチンさんが僕の人柄を見て判断し、合格にしてくれた。