在宅看取りを経て葬儀を経て数週間、だんだんと振り返る事が出来る時期に入って来たと思います。 勿論まだ母親を看取ってから、3週間時点の私の感想です。何事にも良し悪しがあると思うので、先ずは良かった事から。

(今年1月15日タイに出発の成田空港で)


 ①先ずは今回、旅立ちの瞬間に子供達で立ち会えたのは、偶然だったのかもしれませんが、最後まで看取る事が出来たと思え良かったです。

 もし旅立ちが私達の就寝時になっていたとしても、翌朝に気付いて、いずれにしても「最後まで一緒にいて介護した」と思えた事でしょう。


 ②当然ながら一緒にいる時間が、長く取れて良かった。たまたま私が既に退職して年金生活に入っていた偶然もありますが、介護ベッドの近くで寝て起きて、最後の数日は介護ベッドの傍らに椅子を置いて、心ゆくまで気兼ねなく一緒に過ごせました。


 ③また介護中の出来事に対して、他人を責める必要が無かった事も良かったと思います。

 私と母親自身がやりたい様に、介護生活を出来ていたので、全てが自分達の判断行うことが出来ました。他人の関与や依頼事に、基本的に何か思う事はありませんでした。


 ④ケアマネと介護保険が、それなりにサポートしてくれて良かったです。

 最初から要介護度2を想定して、全て初めての私達をサポート対応してくれて、それなりに自宅介護生活が出来ました。


 また、母親が「リハさんのマッサージが気持ちいい」と言っていた事もあり、「療養中のせめてもの良い事」として、リハさんのマッサージ回数を増やす事が出来ました。

(今年1月16日バンコク、センセープ運河のミンブリー市場付近でMRTピンクラインを見て)




 一方、反省点もそれなりにありました。


 ❶最初から母親は、近所の噂になりたくないと望んでいましたが、介護関係の準備もともかく、在宅療養が始ってからは、訪問看護や訪問診療医など関係者の出入りも増え、いつまでも隠しては置けませんでした。

 大学病院から直接ホスピスに入るならともかく、この点は避けて通れない話だったと思います…が、自宅前の路駐は避けて、せめて「近くの駐車場を借りて置く」などの方策もあったのかも知れません。


 ❷以前の記事にも書きましたが、病状の変化に対して「適切な対応が出来ていたか?」と言う疑問には、今でも怪しい感じがあります。

 インターネット等情報は多々ありますが、その情報と現実の状況を正しく結びつける事は、初めての経験の中で難しかったです。後から思えば「IMADOKOツール」など、在宅看取りの援助情報を知って、理解しておく事が大切に思います。


 ❸余命に囚われていましたが、結局、我が家の在宅介護では、「余命の残り期間の情報」が介護に与えるメリットを感じる事は有りませんでした。

 そもそも日々の状況対応に追われていて、余命の残りを勘案して介護対応する様な余裕は有りませんでした。


 ❹母親も医者から問われて、自ら「お願いします」と返事していましたが、医療用麻薬の点滴を始めて2日目に亡くなってしまいました。

 3日分の用意されたのに、点滴を始めて丸一日ちょっとの事でした。

 点滴薬の副作用に呼吸の抑制も書いてあり、亡くなる数時間前のベッドマット交換時に、緊急用の追加ボタンを多用していた事は、ちょっと気になる記憶になってしまいました。

(一応、追加量の制限は機械がコントロールするから大丈夫!と、訪問看護師は言っていましたが…)





 話は全然変わって、今夜(6/25)のNHKの政見放送、見ましたか?NHKから国民〜は、ともかく、ジョーカー、ポーカーetc…、楽しかったら立候補する?興味有ればいい?学校の生徒会だって…。


 しかし…、政見放送を見ていて、N党は「まぁ、そんな感じ」と見ていたが、段々妙な感じになって来て、ついには…。

(後ろの手話通訳さんも、お仕事とは言え本当にお疲れ様でした)


 ここまで来ると、なんか昔のBBCのモンティーパイソンみたいだなぁ…なんて、思えてしまいました。(モンティーパイソンのギャグの方は、もうちょい捻っていたと思います。むしろゲバゲバ90分みたいかな)


 ある意味で「今の、めちゃくちゃな政治」へのアンチテーゼなのかも?なんてさえ思えてしまいます。



 本当に世も末だなぁ。(勿論、こんな国政する政治家を選んでる私達も、同じ穴のムジナですが)


 こんな日本に誰がした…。

 その内、神の怒りをかって首都直下の大地震…なんてあるかもしれないですね。