手伝い
私たちにとって、神のイメージは我が身(頭と胴体と手足)とは何かという意味の問いであり、頭(神の御心)とイエスキリスト(胴体という支え)という生命時計を基礎に置いた、手足の働きであり、人は、自らの存在(意味的な身体)を消した、言語の海という時代によって形成されている体系化を前提にした自分を語っている。それは外観であり、自分と相手との鏡合わせを通した、互いの間(言語の海)ということになる。それはメディアメッセージであり、その情報を利用した自分の立場(肩書)を語っていく。そこには、生命という意味が欠如され、社会という共同幻想の出来事と物事が錯綜している混沌の世界から切り取った、他者の言動というニュースな出来事を話題にした共通のイメージに一喜一憂している。私たちは彼らの言動に対して沈黙を通して、相手の意味と自分の意味という二つの間に存在している。見えない頭(神の空間)と、見えない胴体(イエスキリストの時間)という、数値化できない存在そのものを問うことになる。
そのとき、弟子たちはイエスのところに来て「いったいだれが、天の国ていちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた…マタイ18:1~2
子供とは、体系化された言語の海という社会的な制度に対して、その経験をまだしていない無垢な肉体ということになる。それは、イエスキリストという胴体を通した、神への帰依という秘められたメッセージを受け入れる用意がある〝存在〟ということを、弟子たちに素直に伝えている。口先で神を指し示すのではなく、自ら、子供を呼び寄せ、自らの手招きという行為(パフォーマンス)を通して、自らの手を用いて伝えるという非言語を通して、弟子たちの世からの既成値(心のゴミ)である体系化された言語を消していくことになる。
はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない…マタイ18:3
私たちは世の知識に頭から手足の先まで、ガンジガラメに縛られているという感覚が欠如している。それゆえ、口から出る言葉は、すべて社会的な通念である、混沌のなかの切り取りという自他の混交を自己表現(コピー)としていく。
- 髪の縺れ、嘘のかたまり、社会的行為の織物はそうしたものである。錯綜した知的体系、欺瞞の織物、科学と呼ばれる織地(メディアメッセージ)、これらすべて接合組織(ネットワーク環境)である。仲間になるとは、網状組織をつくることである…ノーマンブラウン
- 非言語コミュニケーションとは、言語に依らないコミュニケーションのことをいい、ノンバーバル・コミュニケーションとも呼ばれています。例として、表情や身振り手振りなどの仕草、声のトーン、服装、インテリアなどが挙げられます。アメリカの心理学者アルバート・メラビアンによると、人間は言語情報より非言語情報から多くの情報を得ているという研究結果が出ており、非言語コミュニケーションは、情報の発信者の印象を大きく左右しているのです。
24/7/23ブログ参照