24/6/22 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

鬱積

戦後生まれの私は、混沌社会のなかでの民衆たちのパワーによって、戦時下の鬱積からの脱却という、帝国主義的な思考から、自由主義的な思考に国全体が移行していく時代の変遷を肌で感じながら、自らの生き方(哲学)への模索という、時代と自分の間(精神作用)を形成していくことができた。いまは、戦後の混沌とは逆にコンピュータによる整合性という既成事実に覆い尽くされ、私にとって第二の〝鬱積〟の時代(デジタル化、出来事と物事が砂のように細分化された世界)を感じている。そのような中で、私は聖書に出会い、鬱積(イエスの受難物語)という現実が信仰によって事実であり、時代という現象を形成しているコンピュータ依存の人々との〝対立〟という意識に置かれることになる。

 

私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き。もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た…ヨハネ黙示録21:1~2

 

対立の意識を与えてくれるのが現象に依存している人々から疎外(空、風、火、水、地)に置かれている〝聖霊〟であり、物質世界による出来事と物事という人間による既成事実の海は、限りなく細分化された数値の世界であり、意識がそのまま置かれた暗黒宇宙(無機質なコンピュータ)への認識ということになる。そこには生命現象という光が消され、星一つない野心と欲望による戦場の光(爆発、敵と味方の入り乱れた死体の山)で溢れている。人の命が数値化され、覇権の指針(死体の数)となっていく。聖書が教えてくれているものはその現象からの〝差異〟であり、創世記から黙示録までの文字(鬱積)からの解放(精神作用)というものを、聖書の文言(試行錯誤)を通して〝聖霊〟からの受肉という生き方を実感していく。そして闇(宇宙空間)に一つ一つの光の粒のような個性(星の輝き)という内なる世界(光によって出来事と物事を、自らの心ファンタジー)の中で、中心と周辺という〝一つの独楽〟として回転し始める。

 

そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである…ヨハネ黙示録21:3~4

 

差異を通して、私たちは神の御心という場が与えられている。それは時空間という運動を通して、生命の鼓動のイメージをアート感覚によって語っていくことになる。

 

すると玉座に座っておられる方が「見よ、私は万物を新しくする」と言い。また「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」…ヨハネ黙示録21:5

 

人類の発祥のときからアート感覚というものは人の心に与えられている。それは現象でも現実でもない、想像(イメージ)によって呼びかけていく神の声ということになる。イメージとは現象でも現実でもない、心の内なる心象(無かに出現する)であり、一人一人に与えられた神からの賜物ということになる。

 

  • 「言語には対立しかない」とソシュールが述べているが、対立と同じ意味で差異性という語も用いている。対立によって言語は無から出現するのだが、彼はその無区分、無対立の状態のほうをも差異性と呼んでもいる。言語を生み出す差異と言語の前の無としての差異を、二つながら了解しておかなくてはならない…ウィキペディア
  • 観念(イメージ)とは、元来は仏教の用語で,真理または仏を観察思念する意味。今日ではギリシア語イデアの訳語として色々な意味に用いられる。古代ギリシアではイデアは事物の超感性的な原形中世では神の心のなかにあるイデアを原形として万物が創造されたとする。イデアは人間の心のなかに現れる意識内容,または表象を意味するにいたった…コトバンク

24/6/15ブログ参照