24/6/21 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

受ける罪

神の言葉が天気だとしたら、人の言葉は出来事と物事の物の形ということにな。それゆえ、私たちは互いの間(気分)である左右の間という三つの意識を同時に受け入れる心(空間)というものを通した自分と相手ともうひとつの何かという三者三様を一つに結び合わせるパターン(イメージ)を造形していかなくてはならない。だか、時代に依存している彼らは、空間という場を覆い尽くすほどの情報過多の野心と欲望によって、私たちを大地から地下へと追いやることになる。私たちは地下の〝一粒の種〟として、地下から地上へと〝メッセージ〟していくことになる。私たちは日常を〝受ける罪(抑圧)〟として、日々をその克服(はねかえす言葉)のエネルギーによって生きている。

 

慰めよ、私の民を慰めよと。あなたたちの神はこう言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍にする報いを、主の御手から受けた、と…イザヤ40:1~2

 

抑圧を跳ね返す。私たちは信仰を通してクッションの皮膚(弾力性)を与えられている。時代の人たちの罪を黙して受け、その意味(相手の真意)をあぶりだしていく。イザヤはそのような心を通して、虐げられている私たちに対して生きるための権利を与えてくれている。

 

呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は見る…イザヤ40:3~5

 

私たちの信仰が受ける罪という覆い尽くされた情報過多であるという認識の上に、それに逆らえば罰せられるという不条理の言語群の波に、私たちは中間領域として置かれている。それゆえ、神の御心によって造る〝方舟〟という個性は、透明な神の御心によって造形(この文章)されていく。

 

あなたがたは知らないのか、聞いたことがないのか。主はとこしえににいま神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者のに力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者が倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない…イザヤ40:28~31

 

  • 躓きにおいてもまた同じような転換が見られる。すなわち、「自分の罪に絶望する」という段階から「罪の赦しについて絶望する」という段階を経て「キリストを否定する」という段階へ転換するのである。これは、聖霊を汚す罪だとキルケゴールは言う。そしてこの段階においては、情状酌量「同時」という語の第一の定義は、日常生活で用いられているものに、いっそう近いように思われる。というのは、二つの事象が同時かどうかという質問は、日常生活では基準系には関係ない。しかし、相対論的な定義では、どちらでも、この語は明確に定義されているが、その明確さということが日常生活の言葉には欠けている。相対性理論によって明るみに出された空間と時間の構造は、物理学のいろんな部門に多くの影響を与えた。運動する物体の電気力学は、相対性の原理から直ちに導くことができる…ハイゼンベルグ

24/6/16ブログ参照