24/6/23 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

壁と通路

世に依存し、世を自分としている人たちは、自らの因果(世から得た出来事と物事)の集積を通した〝結果〟というものを主張する。それは、彼の人生観であり、私とは関係ない言語の構造物に過ぎない。それは相手の建物(社会的な人格)の外観であり、相手の内を示す入口もなければ、出口を示す印もない、ただの壁ということになる。。私は相手の外観(社会的な権威)に興味(私の文章にはイイネがつかないし数値が無効)がない。それゆえ、相手に対して〝通路〟というものを求めるメッセージをすることになる。通路とは心の開閉であり、そのような心の設問に対して相手は自らを無視し、結論(相手は百点)を通して、コンピュータによる整合性を前提(社会的なイイネ、先生の側)にした武器(理論武装)を用いて相互監視の視線(社会的な自己肯定)を私に(ゼロ)に向ける、それは私たちの落ち度という減点を捜している。

 

我が子よ、私の言葉に耳を傾けよ。私の言うことに耳を傾けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある…箴言4:20~23

 

私たちは外観という現象界に対して、自らの心を守らなければならない。相手が発信している情報化に対して、相手を通路のない壁(ゼロ)として認識することで、相手の外の世界(疎外)に私たちは置かれることになる。それは空白であり、百点でも零点でもない。そもそも数の世界ではなく、相手にとって零点を意味する〝句読点〟ということになる。

 

曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけ、目をまっすぐ前に注げ、あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ…箴言4:24~25

 

句読点に対して数の言葉は無効となり、相手の百点の建造物も単なる地図上の印(組織の構造)に過ぎないことになる。私たちは句読点という両岸(所属を前提にした敵と味方に分かれた論争)の間の通路であり、物の形ではなく、霊的な風のような言葉(情緒という音楽的な喜怒哀楽の造形)ということになる。

 

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているいるのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦したように、あなたかたも同じようににしなさい…コロサイ3:12~14

 

福音(情緒という音楽的な喜怒哀楽の造形)は、両岸の論争(既成事実という知識の構造物)には加わらないということになる。私たちは世の言葉を離れ、句読点(霊的な歌)を通したタテ糸(天と地の間)の浮遊感を通して語っていく。

 

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい…コロサイ3:16

 

  • オルフェウスに、トラキアの娘たちは優しく声をかけてきました。彼はエウリディケー以外の女には見向きもしません。娘たちも彼の仕打ちに我慢をしていました。ディオニソスのカーニバルの日ことです。酔った娘たちは興奮して叫びはじめました。「あそこに、私たちを侮辱した男がいる!」手にした槍をオルフェウスに投げつけましたが、彼の竪琴の音に、槍は彼の手前で落ちてしまいます。石を投げても同じです。すると、娘たちはいっせいに大声(相殺)を出して、竪琴の音(福音)を消してしまいました。槍はオルフェウスの胸を貫きました。さらに興奮した娘たちは、彼の体を八つ裂きにして、頭と竪琴をヘプロス河に投げ入れました。頭だけになっても彼は唄い続けています…ギリシャ神話

24/6/12ブログ参照