24/6/19 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

数と質

信仰者にとって内()と外()という個(内なる人)と集団(外なる人)の区別が大切であり、互いの間(聖と俗)という環境世界(生活圏)と空間(精神世界)との分離というものを意識化させていく。世に生きるためには、環境という自他の混交である社会性が必要であり、その既成事実という常識世界で人々との交流というものが優先されていく。それが外なる人(集団に含まれる記号)であり、デジタル環境のただなかで、自らの立場(記号)の有効範囲という日々の活動に対して、カレンダーの数字に埋めるように一日のスケジュールが埋められていく。それに対して、私たちは世に沈黙させられている。一方的に流れていく時間に対して、句読点のように、互いの間の空白という場を指し示す言葉か発せられる。私たちは、二人の女性と、間にイエスキリストという設定の三者三様の役割を通して、環境世界(マルタ)と沈黙(マリア)とイエスキリストという間を指し示す存在の芝居を見せられることになる。

 

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろもてなしためにせしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせています。何とも思いませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」…ルカ10:38~40

 

私たちは日常に流されていく場には、心を語る芝居(アート感覚)というものが必要であり、それは流れる時間と考える時間の接点(句読点)を提供してくれる。多くの人々にとって句読点は貨幣にならない戯言であり、子どもたちが語るお伽話のように、読み手と聞き手に分かれた間というものが指し示されることになる。私たちは聖書を知識人たちの啓蒙書として、その言葉(ファリサイ派、律法主義者)に染まるのではなく、句読点を通して、環境世界(世の出来事と物事に翻弄された日々)と空間(神の御心を通した自分の心)とに分離されていることに気づかされる。

 

主はお答えになった「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しんし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはにらない」…ルカ10:41

 

マルタは数(既成事実に翻弄される日々)、に対してマリアは質(沈黙した聞く耳)ということになる。

 

  • 言語には対立しかない」とソシュールが述べているが、対立と同じ意味で差異性という語も用いている。対立によって言語は無から出現するのだが、彼はその無区分、無対立の状態のほうをも差異性と呼んでもいる。言語を生み出す差異と言語の前の無としての差異を、二つながら了解しておかなくてはならない…ウィキペディア

表は生、裏は死

ノアの方舟の動物は、お祈りを知りませんでした

硝子屋のうしろから市じゅうが動き出します

喇叭のけいこ、花、舞台の黒衣(あなたはあんまり厳しすぎます)

もし背景が表なら

悪事は露見されるはずです

もしも背景が裏なら

彼女は王さまの息子と結婚するでしょう

…ジャン・コクトー

24/6/15ブログ参照