24/6/17 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

信用と信頼

信用とは自分の側が主であり、相手を利用するために相手を試み、それに合格したら裏切らない保障(公的、タイトル画、パロ行動する銀行家)を互いの間に契約を交わし、信用を発生させることになる。それが社会的な通念であり、互いの間(社会)を通して互いが利用し、利用されることになる。それか組織としての約束事であり、そこには真の人間性(個々の関係)が消されている。それに対して私たちは、互いの間に神の御心という信頼(中心)を置き、互いの個性という差異(それぞれの生き方)を認め合う中心(信頼)というものを共有する。それは社会(利用)ではなく、社会を消した透明性(神の御心)を心の内(心の中の板に書き記す)に宿すことになる。

 

慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意をを得、成功するてあろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくたさる…箴言3:3~6

 

信仰を主に生きることで、世とはルール(法と秩序)という合理的な整合性による科学的な言語の集合体であり、それらを頼ることはできない。彼らは自分が主(ルールを利用)であり、自らの分別で出来事と物事を判断していく。それは私たちから見たら互いの間という透明性の欠如であり、心ない物的な欲望によって私たちの生き方(生活は貧しく、生きるのに精一杯の日々)を顧慮せず、社会言語(自分自身の知恵)を強制してくる。

 

自分自身を知恵のある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう…箴言3:7~8

 

彼らは固定された物(代謝機能がない)であり、私たちは筋肉(弾力ある内なる力量)を持って外と対峙し、そのための骨(クッション)が支えてくれることになる。それは、外との緊張関係を通した我が内なるエネルギー源ということになる。

 

我が子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを拒むな。かわいい息子を懲らしめる父のうに、主を愛する者を懲らしめられる…箴言3:11~12

 

スポーツ選手が自らの肉体を鍛練するように、私たちは自らの内なる感覚を鍛練することが信仰にとって大切であり、外の言葉がスポーツのルールだとしたら、その言葉(社会による過干渉)に対して沈黙する。彼らは、自らの感覚(肉体)を無視し、多勢という言語群(弾力もクッションもない数の力)によって私たちを攻めて来る。

 

  • 自分の仕事を機械のように処理している人間はだれでも、機械の心臓(デジタル)を発達させるし、胸に機械の心臓(時代の価値)をもった人はだれでも、人間の純真性を失うことになってしまう。この純真性を失ってしまう人間は、その精神のはずみ(弾力とクッション)の面で不確かになってしまう。精神のはずみの面で不確かさは真理を相容れないものである…ロロメイ
  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング

24/6/13ブログ参照