24/6/13 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

百匹と一匹

多勢と無勢、それは現象と現実のように、時代を現象として自らを依存させるとき、自分は集団の顔(枠組の模様)という時代の布地のイメージとして認識されていく。それは世から与えられた言語群であり、時代(文章)として、細分化された枠組(世代間の差異)が、それぞれに組織化され、その世代の色を主張する。それに対して、現実という認識は自らの五感(聴覚、味覚、触覚、嗅覚、視覚)によって、言語の海という相手の文章に惑わされない〝映像〟というイメージを自らの内に持った認識ということになる。彼らは既成事実という知識によって自分を表現し、私たちは五感を通して生きていく。

 

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。するとファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした…ルカ15:1~3

 

多勢を仕切る知識人として、イエスの前に現れたファリサイ派の人々と律法学者たちは、世の常識世界を前提として言葉を用いてイエスに、その行動を非難する。私は彼らの宗教の信徒ではない、時代に依存して主張していく新興宗教の教祖には従わない。私は文章の〝句読点〟のように、外の言葉を消し、自分自身の考え方というものを大切にしている。そして、イエスはそのような無勢(白紙の心)を擁護する言葉によって私の存在を認めてくれる。

 

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないたろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を寄せ集め「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくたさい」と言うであろう…ルカ15:4~6

 

彼らは世に現象している活字(文章)を並べて説得する。イエスは状況を通して一つ一つの活字(相手の内なる世界観)を顧慮して、その過去の出来事と物事の苛酷な日々を理解してくれる。自分の存在価値を認めてくれる相手に対して〝感謝〟の心がわきあがる。それは一つの個性ともう一つの個性が触れ合う関係であり、百匹を管理し、その数を誇っているファリサイ派と律法学者の心には、悔い改める必要のない正しい人として世に機能するか、その言葉はデジタルであり、機能美(整合性)という性能を重視する機械的な心の持ち主ということになる。

 

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九匹の正しい人についてより大きな喜びが天にある…ルカ15:7

 

私たちの自由は、多勢が支持する機能美にあるのではなく、変幻自在な天気のような情感にある。日々の変化に感動できる白紙の心であり、私たちはその空間に神の御心を感じ取ることができる。それは肉体(感覚器官)を通した言葉であり、互いの間の機械(コンピュータ)を通した自己主張(SNSによる罵詈雑言)ではない。

 

  • 自分の仕事を機械のように処理している人間はだれでも、機械の心臓を発達させるし、胸に機械のような心臓をもった人はだれでも、その人間の純真性を失うことになってしまう。この純真性を失ってしまう人間はは、その精神のはずみの面で不確かになり、精神が不確かなさは真理を相容れないものである…ロロメイ
  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング

24/6/3ブログ参照