24/6/12 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

私の心の声を聞き取ってくれる

情報過多の時代意識に便乗しているような文章(解釈)ではなく、時代そのものを対象化させ、心の外の出来事と物事の集積物であるという判断をするとき、私は外のすへてを消して、語る側の心模様に耳を傾ける。相手は外であり、私は内という、まったく異なる世界を私は感じ、相手は心の内は無関心ということになる。

 

あなたは神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、私の上降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからといって嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります。町の門に座る人々は私を非難し、強い酒に酔う者らは私のことを歌います…詩編69:10~13

 

私が外の人と共に集うことはなく、集えば非難の的にされるという意味となる。そけゆえ、自らの文章を聞く耳のある人のみにメッセージをするという方法を用いて、二つの世界の間に私の文章(イメージ)を描いていく。

 

あなたに向かって私は祈ります。主よ、御旨にかなうとき、神よ、豊かな慈しみゆえに、私に答えて確かな教えをお与えください。泥沼にはまり込んだままにならないように、私を助けてください。私を憎む者から大水の深い底から助け出してくたさい…詩編69:14~15

 

世に私が感じる情報洪水という現実に対して、彼らはまったく何も感じていないという意味であり、そのギャップに対して、絶望的なイメージを前提に、新たなイメージという中間領域を指し示していく。

 

奔流が私を押し流すことのないように、深い沼が私をひと呑みにしないように、井戸が私の上に口を閉ざさないように。恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐れみ深い主よ、御顔を私に向けてくたさい。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いて答えてください…詩編69:16~18

 

私は信仰(無意識)を通して自らの言葉を紡いでいく。それは主が、私の心の声を聞き取ってくれるという確信によってイメージを描いていく。それゆえ、私の文章に対して耳を傾けてくれる人のみに私のメッセージは届けられる。多くの人々が私の前を通過していく。安部公房が「箱男」で示し、壁という作品で指し示している人々であり、相手の外と内の間をはっきりと問うことになる。

 

  • 壁がない。そういっても、これは壁において絶望的に発見された世界です。もし諸君が欲すならば、これを生活の解放と呼んでもいいでしょう。しかし、解放とは運動の持続の属性であって、精神が特定の状態に入りこむこととは違うのだから、こいつ、のべつに天気朗報ということではないと心得ていいでしょう。壁は有り、また無い…安部公房「壁の序」より
  • 無意識は、「意識がない状態」と「心のなかの意識されない或る領域」の二つの主要な意味がある。弱い意味で「意識がない」という場合は「気づかない」という意味でもある。人間は時間のなかで、非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受け、その多くを意識している。しかし、記憶に関する心理学の実験からは「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激として大脳が感受し記憶に刻んでいる量は、さらに膨大であると言える…ウィキペディア

24/6/9ブログ参照