生き抜く
抜くという力は、世のが示す攻撃の力とは逆であり、シャンパンの栓を抜く、詰まったパイプに対して吸い込む力でゴミを吸い取るという攻撃に対して防御ではなく相手の力をそのまま利用することになる。私たちにとって生きるとは、一つのパワー(相互貫入)の呼吸であり、吸って吐くという相対性の原理(結果ではなく運動)ということになる。多くの信仰が攻撃に対する防御という〝壁〟を互いの間に築くことになる。それは一方的な言語環境であり、壁(熱心な信徒たち)に隙があれば殺されるという危機的状況が使徒言行録では示される。
そのころ、ヘロデ王の教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれのを見て、更にペトロをも捕らようとした。それは除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた…使徒言行録12:1~5
結果とは片方の論理の解決であり、ペトロは殺されるという攻撃する側の解答ということになる。そこに〝天使〟というゼロの価値がペトロを導くことになる。そして、天使の役目が終わると幻が消され、ペトロは我に返り、マリアの家に行き、門の戸をたたき、聖俗の間という人間の側の言葉によって門は開かれないままにペトロその場に置き去りにされる。
人々は「あなては気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らは開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し「このことをヤコブの兄弟たちに伝えなさい」と言った。そしてそこを出てほかの所に行った…使徒言行録12:15~17
信仰とは〝聖霊〟という通路(呼吸という運動)を通して伝えられるメッセージ(生命現象)であり、そこには聖俗の争いはない。信仰を共にする人々のみに伝わる〝秘められた〟場に伝えられるものであり、沈黙という我が身の内なる世界観ということになる。そして、使徒たちは、外への恐れと戦いながら、自らの〝意志〟を聖霊に托して〝生き抜く〟という、過去(自らの影)を消した我が身(未知への好奇心)を突き進むことになる。
- 状況(思考空間)とは、外から観察、記述される客観的な環境とは区別された、人間がそれを生きざるをえず、また生きることによってのみ開示される場をいう。人間は宙に浮いた無世界的な主観ではなく、状況のうちでの存在である。そのことは、人間が状況のうちで制限され拘束されているときしか行為することができない、という否定的な意味をもつだけではない。状況のうちでのみ人間は人間的自由の主体として存在することができるのである。状況は実存哲学の重要な概念である。ヤスパースは、人間によって変えることのできない状況――死、苦悩、争い、責め――を限界状況と名づけた。ハイデッガーにおいて、状況は本来的に実存する者にとってのみ開示される。サルトルは、状況を即自の偶然性と対自の自由との緊張関係のうちでとらえている…コトバンク
24/6/5ブログ参照