24/5/13 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

 

 

文章と福音

世は文章という文字の組み合わせることで、体系的に論理化していく。それは過去の人類の業績(コンピュータにインプット)であり、歴史的な因果関係を構築している。人々はそのような構造の社会制度に従がい、それぞれの立場で、それを利用し、利用されながら、文明という世が建設している現象に自らの生活を依存させている。だが、そこには、環境(枠組という日々の生活)の向う側である空間という心の世界が存在しているこを知らない。

 

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らは、私の名を使って偽りの預言をしているからである。私は、彼らを遣わしたはいない、と主は言われる…エレミヤ29:8~9

 

環境と空間は異なる。私たちは空間を通してそれぞれが文明の価値の奪い合いを通して敵対している環境という場を提示していく。エレミヤは世の構造に対して、触れ合う音の世界をイメージし、神は敵対する災いの計画に対する平和の計画というものを、一人一人の心の内に宿すように、真の信仰の意味を悟るように語る。

 

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたちを顧みる。私の恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちために立てた計画をよく心に留めている。と主は言われる。それは

平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである…エレミヤ29:10~11

 

信仰を持つとは、心の空間(内なる世界)を与えられているということであり、外の言葉から回避された内なる世界観というとになる。それは外からの環境を自らの内から消して、一つ一つの記号(我が身)を通して、記号と記号の触れ合い、それは音楽の音符のように、全体性というシンフォニー(神の御心)を通して、平和の計画(作曲)へと実現されていくことになる。コンサートホールでは優れた再現者(神の御心)にる名演奏が奏でられている。

 

私を尋ね求めるならば見い出し、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう。と主は言われる。私は捕囚の民(環境を形成している論理世界にガンジガラメ)を帰らせる。

 

わたしはあなたたちをあらゆ国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かってそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる…エレミヤ29:14

 

  • (時代によってガンジガラメにされていた集団意識)から解放され、純粋な個に帰されるとき、私たちは神の御心に触れることができる。大江健三郎は、小説と詩との区別を通して、外を食べるという論理世界(デジタル処理)に対して、内(空間)は人間の棘(原罪)を通して燃える何かを表現していくと語っている。従って小説において、薄い殻を取り除いて言説の機能を働かせた後、すなわち、一冊の小説を読み終わったあと、閉じられた本は、落花生り殻の堆積のごとくきものてある。ところが、詩は、真にそれを読んだ者にとって、言葉の実質の機能がそのままことかたまりの錘となって肉体=魂のうちにしっかりとくいこんでしまうのである。そこで、詩は、読み終えるということをしない。いったん人間が詩に遭遇すると、出会いは常に進行中である。僕にとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂に突き刺さっている棘のように感じる…大江健三郎