24/5/12 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

置かれている

動かない固定された物として、多くの人々が私の前を通過していく。それは世の情報をいっさい発信していない〝枯葉〟のような、貨幣価値のまったくない姿をしている。それは内に秘められた時間であり、世の時間(出来事と物事に翻弄されている政治経済というメディアメッセージ)ではなく、時代に翻弄され、ボロボロにされ、春夏秋冬を経験した透明な文章ということになる。私たちは神の言葉とは、秘められた時間を意味すると思っている。それれゆえ、流されていく時間(世の情報)に対して止まった時間(精神作用)としての思考空間というものが必要となる。

 

父が子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくたさる。主は私たちをどのように造るべきかを知っておられた。私たちが塵にすきないことを御心に留めておられる…詩編103:13~14

 

植物の魂は大地に植えられた種のように、若葉から枯葉へと、そして朽ち果て大地に帰る。多くの兵士たちは戦場で朽ち果て、多くの兵士の家族たちの涙で大地は潤う。だが、多くの人々の心の大地は渇き、涙は貨幣に変換されていく。そして貨幣は形なき生涯(格差社会)として時代の価値に吸収されていく。私は社会に吸収される生涯(貨幣)よりも〝枯葉〟を選ぶ。そこには神の慈しみによって存在価値が与えられる。

 

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もいなくなる。主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らに子らに。主の契約を守る人、命令を心に留めて行なう人に及ぶ…詩編103:15~18

 

誕生と同時に私たちに与えれた唯一の存在である肉体は、外との関係によって変幻自在に変容していく。その感覚を消して、貨幣価値(他者の心)に誘惑されることを忌避する。私は私であり、私に代わる価値はこの世にない。神から与えられた唯一の存在ということになる。

 

彼は、病める文章、死産したような文章拒み、「文章の健康」をもって「伝染病に感染している文章」の治療を試み、その「文章治療」は臨床医に似たエートスを思わせる。つまり、彼は文章はあたかも患者のように取り扱い、それぞれの文章をそれ自身として受け留め、来歴や過去を問わぬのである。重要なのは文章を文章として論議することであって、文章の意味するところが嘘なではなく、文章が嘘なのである。それゆえ、特定の内容、方法、プログラム、或いは個々の作者や作品を拒絶したり或いは承認したりすることではなく、命令、禁止、範例、単なる歴史的因果関係(明日のない希望)を忌避することであり、今(白紙の現実)現実に起こっていることに対して、自らの自由な発想を展開していくことになる…ペーターハントケ