24/5/2 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

押し潰す力に対する抵抗

信仰とは忍耐ということを聖句を通して常に語られている。得体の知らない社会的な力に対する無言の抵抗であり、世は集団化した言語の海という荒波を立てている。その環境に一人置かれているという感覚であり、生き抜くための生命力というものが心の内に秘められているということであり、そのエネルギーを常に強めてくれるのが、私にとって信仰の力ということになる。私たちにとって聖書とは、盾であり、避けどころということになる。それゆえ、その力は個々に異なり、それぞれが力を合わせて、得体の知らない力に対して、今日も、一歩ごとに突き進むように生きていく。

 

しかし、あなたがたは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたがたの行いには、必ず報いがある…歴代誌下15:7

 

得体の知れないもの、その正体をできるだけ明確にしていくのが、神の光の意味であり、闇に潜むそれらの悪意は、表面は正義感にあふれているように、多くの人々()には、蛮勇という闇の力によって私たちに襲いかかって来る。

私たちの抵抗は〝沈黙〟であり、彼らが武器(理論武装)にしている言語の海に私たちの言葉は無効ということになる。

 

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はいないであろう。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ、あなたは、私が先祖たちに与えると誓った

土地を、この民に継がせる者である…ヨシュア1:5~6

 

沈黙とは、心の内という世界観であり、聖書の言葉は心の内で読むものであり、それに対して時代が環境という枠組を通した、社会現象であり、既成事実という地盤(ネットワーク)を形成していく。私たちはその〝罠〟に捕らわれてはならないというメッセージが私にとって聖書からのメッセージということになる。私にとって生きるとは、敵の正体を知って、その悪意の飲み込まれないという生き方を意味する。そのために、聖俗の分離という第三の場を想像(イマジネーション)を必要とすることになる。第三の場とは、私にとってアート感覚という意味となる。

 

  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イマジネーション)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈、教祖によるタブー)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング
  • 境界状態(liminality)とよべるような中間地帯では、人々はそれまでの社会上の地位および位置からはずれて、まったく異なる存在になってしまうことがある。秩序化がある程度進んだ社会なら、秩序からはずれた存在の持つ危険性が承知され、それはタブー(宗教)が異なる存在となった人々を規制したり忌避したりすることに示される。つまり地位変更の局面では、それまでと比べて加入者に対する社会からの構造的な規制は弱まるが、その代わりにタブーが適用されて彼らの行動が規制されるようになる…ヴィクター・ターナー