死を境に考える
失った時(死)を通して生(私のいない世界)を考えるというイメージは、騒ぎ立てていた私という雑音(日々の生活)が世と同化するように時代に同化され、時代色となって消され、混然一体となった出来事と物事が津波のように流れていく様子がイメージできる。そして私の生きていた痕跡は世と同化された「骨壺」ということになる。だが、私という存在を神によって与えられた生として過ごしていた時(時代との差異)を、思い起こしてくれる人があらわわれ、私の生前の生き方に気づいてくれるかも知れない。そんな日々の徒然を霊の導きに従って、今日も、このような歩みを続けていく。
主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために…イザヤ61:1
差異という生き方は、時代との分離を通して、混然一体という言語の海(情報過多)に対して、沈黙(隠された世界)を意味する。表層の出来事と物事の奪い合いというメディアメッセージの日々に対して、黙した映像(沈黙)に対して思いを馳せるアート感覚ということになる。それは風が運んでくれる新鮮な出来事と物事であり、生きている森羅万象(言語を消した映像)をはっきりと見る意味となる。
シオンゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる…イザヤ1:3
人はかならず死を迎える。信仰とは死(差異)を通した生(神の御心)への帰依であり、私の人生(騒音)を消された思考空間ということになる。信仰にとって精神の廃墟とは、この世の雑多な出来事と物事の奪い合いの結果であり、心が疲れ果てた荒廃の人々の世界ということになる。そのような灰色の世界に青い世界(夜空)という空間(精神作用)が与えられる。何かに触れて新しい響きが心にわき起こる。私たちに内に残されたインスピレーションということになる。
- インスピレーション(ひらめき、霊感、啓示などの訳語が使われる)。問題解決の過程や創造的課題の遂行中や宗教的修行の途中において、突如として現れる重要な着想、または、そのような着想が現れること、あるいは、着想による刺激や感動をいう。本来の語義は空気を吸うことであるが、転じて、吸気のように努力なくして外界から着想が入り込んでくることを意味するようになった。発明、発見、創造などの過程に共通して現れる段階として、(1)長くて苦労の多い準備期、(2)問題の温め期、(3)インスピレーションのおこる段階、などがあるといわれる。(2)の問題の温め期は、睡眠中や他の仕事をしている期間などで、無意識的に事態が再構造化され新しい着想が進む時期である。アインシュタインは有名な相対性原理の論文を書く前の7年間、光の速度の問題を温めて考え、ついに啓示的ひらめきによって論文を1か月ほどで書いたといわれる…コトバンク
- 24/4/27ブログ参照
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