24/5/3 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

キリストとは何?

言葉(表記)とは便利です。表記(クリスチャン)すれば、多くの人々(過去に聞かされたイメージ)が、キリストを知っていると集団化することができる。私たちには偶像(共同幻想)として、専門知識の枠組(キリスト教会)という社会的な記号という見方をしている。そして、その集まりから私は一人を引き抜き、あなたにとってキリストとは何か、と問いかけてみる。そこには過去(人々からの言い伝え)が消され、私と相手の間(今、この時)という互いにとってのキリストとは何かを、互いが自らの心の内にイメージしていかなければならない。

 

今日たち、次のことをぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなるために洗礼を受を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆同じ霊的な飲み物を飲みました。

彼らが飲んだのは、自分たちを離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです…第一コリント10:1~4

 

霊的な岩がキリストであるとパウロは語り、私たちの内にその岩が置かれているかを問われることになる。それは、自分の言葉で語るのではなく、霊にってイメージという受肉(人間性)として語らなければならない。それは、他者性(言い伝え)という自らの過去を消してくれる。他者と自分との区別が大切であり、表記(デジタル環境)を通して、相手(集団の一員)を操作するように語るのではなく、表記(世を奪っている肩書としての操作権)の自分とは何かを指し示さなければならない。私は、彼らの偶像に組み込まれていないという主張によって、相手の操作権を忌避した表現をしていく。パウロははっきりと、その態度を私たちに指し示しくれている。

 

私の愛する人たち、こうゆうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。私たちはあなたがたを分別ある者として話しています。私(公共性、集団)の言うことを自分で判断(意味、個人)しなさい。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか…第一コリント10:14~16

 

私たちがキリストに触れることは、我が身の受難物語(引き裂かれる日々)を通した、キリストの痛み(血の杯)であり、時代という体系化された偶像からの引き裂かれる我が身の孤立を意味する。私は私であり、言語の海(世の現象)に覆い尽くされた中にモーセが二つに引き裂いた第三の道を私たちに指し示されている。それは敵対する言語環境(両極)ではなく、両極の間(空白)を通した、それぞれの存在(差異)を意味する。

 

  • 「言語には対立しかない」とソシュールが述べているが、対立と同じ意味で差異性という語も用いている。対立によって言語は無(空白)から出現するのだが、彼はその無区分、無対立の状態のほうをも差異性と呼んでもいる。言語を生み出す差異と言語の前の無としての差異を、二つながら了解しておかなくてはならない…ウィキペディア
  • 『庸』については、現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる…ウィキペディア