24/4/28 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

信仰を通した私

私とは個という閉じられた世界ではなく、公共を通した開かれた私を意味する。それは社会と神の御心という二つの間(通路)ということを認識てきることであり、社会の心(メビウスの環)という集団の個性となった体制との対立を通して、制度を利用した多くの人々が企む自己実現によって、メディアメッセージという集合体の言語の海が機能していく。制度と忖度の合体(体制)によって体系化されるとになる。そこに参加することで、私の心は消されてしまうことになる。それゆえ、私の文章は社会に〝不在証明〟をしている感覚で、日々のブログを綴っている。

 

だから、すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです…ロマ2:1

 

人を裁く人は社会的な正義を自分の生き方にしている。社会的に正しくないと判断されることは、正しさの裏返し(日々のニュース)であり、忖度が暴かれるこになる。それゆえ、私にとって信仰とは、社会から逸脱した世界に住むことであり、社会言語に関わらない世界を持つ意味となる。

 

あなたがたは、かたくなな心を改めようともせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行なわれる怒りの日に現れるでしょう。神は各々の行いに従ってお報いになります…ロマ2:5~6

 

信仰とは宗教と違い、言葉によって証明するものてはなく、自分の生き方という哲学を人に示していくものであり、その奥に神の御心に支えられているという確信によって自信をもって行動することがてきる。

 

すべて善を行なう者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません…ロマ2:10~11

 

デジタル現象(体系的形式)は敵対による論争を通して勝者の論理(多数決、独裁)を強制する。それに対して、真の知識は個別的であって、霧散した点(疎外)ということになる。イエスは点(現象と戦う)に対して救いとは何かを問うことになる。

 

  • 体系的形式には、一般的なみのしかない。知識はずべて個別的であって、ここの破片、あそこの破片といったように破片となって自然的人間のなかにはいっていく。食物は噛んで摂取去れる。パンは裂いて五千人にださせる…ノーマンブラウン
  • 「言葉は生に、新しい英雄物語が開幕した。言葉は肉とパンである。言葉は肉とパンの運命を共有する。すなわち、受難を共有する」…マンデルシタム