24/4/29 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

絶望と戦うことで浄化される

イエスキリストの生涯を聖書を通して一字一句を我が身に置き換えると、外(時代)に対する絶望を見ているという感覚が我が内に実感(受難物語)してくる。私にとって信仰とは、自分の力で世を良くしていこうという、正義感を持った希望ではなく、逆に私の考え方をすへて消されて「どうする」と問われている感覚によってすべてが始まっている。

 

ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った「ここを立ち去ってくたさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」イエスは言われた「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、3日目にすべてを終える』と私が言ったと伝えなさい。だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」…ルカ13:31~33

 

イエスは絶望を通して、自分の道を突き進むというメッセージをしているのであり、受難(十字架に召される)という終末ではなく、私たちへのメッセージ

は終末という句読点(互いの間)を生きなさいと語っているように感じる。世にとって句読点とはまったく役立たずな無意味な記号であり、自らが消された姿を意味する。

 

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたこか、だが、お前たちは応じようとしなかった…ルカ13:34

 

汚染に対する浄化という意味(運動)は、生きるための過程(死生観)であり、私にとって信仰とは、避けどころ(めん鳥が雛を羽の下に集める)という意味であり、世の言語の海からは隠されている。それゆえ、私は隠されている自らの内なる感覚を霊の受肉という方法で日々を表現していく。

 

見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という時が来るまで、決して私を見ることができない…ルカ13:35

 

受難とは心理学の言葉で抑圧という言葉で語られる、そして神話学では、カインに殺されたアベルの言葉として示されている。それは現象(デジタル)に対する意味(アナログ)であり、体系化()(整合性という科学)対する肉体()を意味(哲学)することになる。哲学なき時代、それは無縁社会を意味する。

 

  • ここ数年、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」という、新たな死が急増している。新たな死をたどっていくと、「無縁社会」ともいえる、絆を失った社会に変わってきている実態が浮き彫りになる。かつて日本社会にあった地域や家族・親類との絆に加え、終身雇用が壊れ会社との絆までが失われている。番組では新たな死が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている社会の在り方を問い直す…NHKドキュメンタリー
  • 神話的思考とは、太陽をこの私の身体的自然、その有機的具体性において解釈するものであり、そのなかで太陽と私との関係は意味的であり、かつ親和的である。自然科学的に把えられる太陽は、私が存在しようとしまいとそこにあるような物質的対象性であり、底から得られる知識は私の生と死を豊かにするものではない。この場合、太陽は単なる物質の構造、つまり無意味だからである…笠井潔