24/4/27 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

二つの愛

私を中心に世を見るとき、私というものへの確かさが必要となってくる。私とはいったい何者か、世に属している私は他者性にどっぷりと染まり、言語の海に匿名性にされ、とんなに他者性(だれでもあり、だれでもない)に支えられているかが、他者が求めている貨幣(何でも手に入る魔法の数字)の私であり、それを中心にした人間関係が日々を支えている。

 

イエスは彼らの悪意に気づいて言われた「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金を納めるお金を見せなさい」彼らはデナリオン銀貨を持って来ると。イエスは「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは「皇帝のものです」と言った。するとイエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った…マタイ22:18~22

 

だれてもあり、たれでもないという感覚は、生きている意味(哲学)を忘れさせてくれる。数字の魔法に細分化された心の世界は、オリジナルという世界観を描くイメージというものを消し去ってしまう。そのイメージはオリジナル(自らの生涯)を見届けてくれる神の眼差しに触れることになる。

 

老いの日にも見放さず、私に力が尽きても捨て去らないでください。敵が私のことを話し合い、私の命をうかがうものが共に謀り、言っています「神が彼を捨て去ったら、追いつめて捕らえよう。彼を助ける者はいない」と。神よ、私を遠く離れないでくざたさ。私の魂に敵対する者が、辱に落とされ、滅ぼされますように。私が災いに遭うことを求める者が、嘲り辱しめに包まれますように…詩編71:9~13

 

老いた認知症の母(オリジナル)を、神の眼差しは見放さないということであり、今の姿は社会性の欠如という数字の世界からの解放(忘れる)を意味する。それを支えるのは同じ眼差しを持った子どもたちに托される。イエスは皇帝の者は皇帝に、神のものは神に返しなさいというメッセージは、子どもにとって母に育てられた自分のいまの立場を鑑み、母に感謝を返すという意味となる。

 

私が老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えてくざたさい…詩編71:18

 

認知症の母と私は魂でつながっている。認知を消された母は白紙になった社会(過去の自分)に固定された幼子ということになる。世に閉じられた過去の自分を語っている。それは子へのメッセージ(世に依存下固定観念)として受け取れる。私は母の魂(産む育てる)を信じ、固定観念(皇帝のものは皇帝に)を聞き流していく

 

  • クリエイティブの語源は、英語のcreativeという形容詞にあります。これは「創造する」という意味を持つ動詞の「create」と、「~の性質を持つ」という意味のある「ive」が組み合わさった単語です。そして「create」の語源は、ラテン語の「産む、育てる」という意味の言葉です。「新たな命を生む」というのが、クリエイティブという言葉が持つ根源的なイメージではないでしょうか…dhu
  • 固定観念は人の経験や得てきた知識から形成され、思考の基盤にはなるが自由な発想を制限する。まだ考えるための時間の余裕はあるのに、固定観念の枠にはまってしまうと、固定観念の枠の中で堂々巡りし行き詰まり状態になることがある。偏った情報が蓄積されることで固定観念が形成されることもある。既成概念では、社会に広まっている概念、考え方となる。「既成概念や固定観念にとらわれない」のように続けて用いられることもある。固定観念と混同され易いものに、ステレオタイプな考えがある。ステレオタイプは元々、判で押したような考え方や類別を意味し、多くの人が同じものを共有している状態を表す。単純で底が浅く個性に欠けるのを特徴とし、タブロイド思考の一種ともいえる。ステレオタイプが多くの人に受け入れられるのは、物事を単純化類型化するため、複雑な思考の努力や反省が不要で、流行などに乗って安易に受け入れが可能となるからである。多くの人にとって、吟味作業や反省は負担が大きく、一旦受け入れたステレオタイプを考え直すということが困難となり、固定観念化しやすい。