外に闘いを、内に平和を
戦うという文字と闘うという文字は異なる。外に黙して内燃する心の葛藤を通して、自らの内に何かの意味が育てられていく。それは情熱として喜怒哀楽が外(アート感覚)に示されていくことになる。それに対して外の言語群に対して自己主張を通した相手を論破していく業火とは異なる。世では業火の人々の冷たい心(愛なき世界)を評価し、その業績をたたえている。彼らは偶像を自分たちの手で造り、それに依存する生き方を人生観にしていく。その結果、沈黙(イエスキリスト)は無きにひとしい者として、無能の言葉として通過されていく。
私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前に預言者たちも、同じように迫害されたのである…マタイ5:11~12
沈黙とは、私たちの美徳であり、心というものは空間を支配する神の御心であり、その透明な空気を呼吸するために、私たちは信仰というものを与えられている。それは律法主義者たちのように表層を語る言葉ではなく、その意味する世界を内に持ちなさいと語っていく。
私が来たのは律法な預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法主義者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない…マタイ5:17~20
世は言語の海であり、そこにはイエスは不在であるという意識であり、不在をいいことに自分がイエスの代理のように語る人々が、世(多種多様な宗教組織)に多く立つことになる。私たちの信仰とは不在を通して、自らに与えられた賜物を通して、世と関わっていくことになる。信仰は律法主義者のように世の衣装として着るものではなく、内燃を通して機微(人生を味わう)していくものという意味となる。
- 「機微をうがつ(穿つ)」は、人の本質や微妙な心理状態を的確に表現するといった意味合いで用いられる。「機微に聡い」は、人の感情や物事の変化の些細な変化を感じることに長けているといった意味合いで用いられる。「機微を捉える」は、物事が移り変わることを敏感に察知するといった意味合いで用いられる。「機微」の複合語である「機微情報」は、センシティブでデリケートな個人情報を指す…weblio
- 外から観察、記述される客観的な環境とは区別された、人間がそれを生きざるをえず、また生きることによってのみ開示される場をいう。人間は宙に浮いた無世界的な主観ではなく、状況のうちでの存在である。そのことは、人間が状況のうちで制限され拘束されてしか行為することができない、という否定的な意味をもつだけではない。状況のうちでのみ人間は人間的自由の主体として存在することができるのである。状況は実存哲学の重要な概念である。ヤスパースは、人間によって変えることのできない状況――死、苦悩、争い、責め――を限界状況と名づけた。ハイデッガーにおいて、状況は本来的に実存する者にとってのみ開示される。サルトルは、状況を即自の偶然性と対自の自由との緊張関係のうちでとらえている…コトバンク
24/4/2ブログ参照