24/3/27 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

ロゴスとは身体感覚

世の文字は白紙の上に印刷された活字(記号)を問題にする。それは人と人との間を操作(発信と受信)する電子化を通した、互いに音声を介さないで出来事と物事が処理できるという時代意識(メール)であり、互いが間(時代の機能)を通した選択肢の世界(ネットワーク)に住むことになる。彼らの前提は了承(選択アプリ)するという結果を求めて行動する。それは処理(整合性)を通して、操作(命令、指示)と実行(処理、労働)が心の分裂(互いに利用のための貨幣価値)を引き起こしている。それに対して、私たちの互いの間は透明(物流に参加していないホームレス)というものを主張する。封筒(外の現象)から隠された手紙(内なる心情)であり、私は自らの無賃(生命体)という質的な存在であり、この文章を読む相手をメールで操作しないし、相手の思惑(忖度)に操作されないという態度(自然)をメッセージする。それはヤコブの社会に対する問いであり、無賃の相手を意識した言動ということになる。

 

私たちの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言うも者がいても、行いが伴わなければ、観の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る者もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれは同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです…ヤコブ2:1417

 

彼らの言葉は貨幣が前提(行為は代償)であり、安心した行くためには壁(社会制度)を通過するキップ(共有の記号)が必要であり、温まるためには彼らのキップを手に入れてストーブの購入が必要であり、満腹するまで食べるためには貨幣と食事との交換が必要ということになる。すべては貨幣(社会に参加)がコミュニケーションの前提であり、私のように無賃(ホームレス)のメッセージは無効ということになる。無賃のコミュニケーションとは、外観を消したその人自身への問いであり、内なる相手に必要な力(ディアロゴス)を与えることが信仰を意味する。それは自分の行為により相手が生きていくための手伝いという身体感覚(情感という言葉に言い表せられない機微)を意味する。内なる相手に必要な存在(相手の役に立つ自ら持っている何か)が信仰であるとヤコブは語る。

 

  • 「手」の字はを意味し、五指と手首の形(筆記用具)に象る。偏旁の意符としては手の部分や形状、手の動作などに関することを示す。左のに置かれるときは、「扌」の形になる。手部は上記のような意符を構成要素とする漢字を収める。片仮名の「オ」は、「才」や偏にきたときの「手」とほぼ同じ形であるが、「オ」は「於」を崩したものの一部から造られた字であるため「才」や偏にきたときの「手」とは一切無関係である…ウィキペディア
  • 社会の大衆化とは、中間的で自律的な共同体が弱体化し、解体して、裸で放り出された個人と、国家という茫漠として抽象的な社会との間に、ほとんどなくの遮蔽物もなくなった状態にほかならない。このような状態の原因はテクノロジーの空前の発展、高度の工業化であり、人類の歴史に前例のない空前の人類の大移動、大都市への急激な集中をらたらした茫漠(精神の砂漠)の地に、たった一人、根無し草のようなも裸の個人として放り出される。それに追い打ちをかけるようにマスコミュニケーションがブルドーザーのような平均値(画一的常識)を推し進め、均一化(メディアメッセージ)から漏れてしまう人々を変人あつかいにして排除(手紙というホームレス的な私のブログ)していく…安西徹雄

24/3/22ブログ参照