24/3/28 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

泥沼にはまる

泥沼とは、文字のごとしに、流れない水溜りであり、それは水と多様な汚物の混合であり、出来事と物事の混沌を意味する。時の流れという水が入り混じった状態となる。それは滞っている流れないままてあり、私にとってそれは世(ネットワーク)の環境であり、操作(デジタル)を使えないアナログ人間が陥っている場ということになる。私の場合、あえてデジタルを使わないコミュニケーションを模索しているので、デジタルに媚びないで、自らのアナログを決して消さないまま、その状況を事実を表現することができる。それゆえ、世と我が身とのギャップという差異の世界をブログで描いていくこになる。それは間(ディスタンス)の世界であり、デジタル(片岸)とアナログ(片岸)の間の神の御心という透明な水の流れを意味(あるいは風と表現される)する。

 

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らずに励み、霊に燃えて、主に仕えなさい…ロマ12:9~11

 

私の信仰にとって聖霊とは清い水を意味する。それはネットワーク(操作する側の隠された思惑)という泥沼(閉じられた環境)ではなく、操作から手を切った一人の男として相手を見ている。そうすると、相手(操作)は私に対して言葉がなにも出なくなる。相手をアナログ状態の置くことで、相手は自らの内なる心の泥沼にはまって身動きができなくなる。私は相手の滞った死後硬直のような心(コンピュータが使えない)を通して、本来の人間(コミュニケーション環境)とは何かを問うことになる。

 

誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい…ロマ12:17~18

 

私は私を迫害する相手(デジタル)に言葉(操作しない)を使わない。相手の心に戦いを挑んでくれるのは神であり、相手が神に気づくとき、私の行為が相手に通じることになる。神は相手の心に入り怒りによって裁いてくれる。相手の心に神が不在であれば相手は単なるロボット(人間じゃない、無機質な貨幣で売買される商品)ということになる。私の心の内には世に見放された大谷翔平がいる。泥沼にはまった水原氏はいない

 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐は私のすること、私が報復する」と主は言われる。あなたがたは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい…ロマ12:20~21

 

断絶のまま、放置された互いの関係は、相手の操作(コンピュータにマインドコントロール)された心からの解放を通して、相手との和解が成立する。だか、多くの場合、断絶(互いの間の壁)のまま、私は私を通し、相手はそのまま世に埋没し、泥沼化に埋もれていく。

 

  • 壁がない。そういっても、これは壁において絶望的に発見された世界です。もし諸君が欲すならば、これを生活の解放と呼んでもいいでしょう。しかし、解放とは運動の持続の属性(水のように流れていく日々)であって、精神が特定の状態に入りこむこととは違うのだから、こいつ、のべつに天気朗報ということではないと心得ていいでしょう。壁は有り、また無い…安部公房「壁の序」より
  • 芸術表現としてのパフォーマンスの表現がどうもいかがわしさを感じさせ、作品や筋や意味など既成の約束事を徒らにぶち壊すことだけを目指しているように思えたからだ。そしてチョムスキーの言語理論のなかに、コンピテンス(言語能力)と対になってパフォーマンス(言語運用)というのが出て来るのを知っていっそう困惑した。私はパトス的行動をパフォーマンスとして捉えることによって、科学の知に代わる選択肢として、コスモロジー、シンボリズムおよびパフォーマンスを主要な構成原理とする、客観主義(科学)に対する演劇(主観)にもとづいた知、演劇知)とも臨床の知(医者と患者)ともいえるものとして捉えている…中村雄二郎

24/3/22ブログ参照