24/3/26 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

受け入れて実行してくれる

私たちは神(ゼロ)が示された空白に私たち自身の心をイメージし、そのイメージを通して支え合い、それぞれの個性が造られていく。それは、同時(相対性)であり、中心(ゼロ)を通した十二弟子というアナログ時計の原理であり、そのイメージに我が身に置くことになる。数字に意味を持たせるためには中心を通らなければ成立しない。それは〝独楽〟の原理であり、地球の意味(システム)であり、その原理を支える透明な互いの間(宇宙)というエネルギー源(神の領域)を意味する

 

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる…ヨハネ13:31~32

 

聖書のトリックは、十二弟子ではなく、十一弟子のまま放置し、その聖書に触れる私たちを一人として加わることを示唆されている。私が入って時計は完成されるのであり、世(表面の地図上の言語の海)に対立している聖域というものを私たちにイメージするように促している。

 

子たちよ、いましばらく、私はあなたがたと共にいる。あなたたちは私を捜すだろう「私が行く所にあなたたちが来ることができない」とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたたちにも同じことを言っておく…ヨハネ13:33

 

私たちは神の存在を自らの内なるゼロという中心に宿している。それは命というエネルギー源であり、誕生から死までのイエスの生涯を再認識するための胎内時計(秘められメッセージ)ということになる。イエスのように地上にいて天空をイメージできる信仰であり、神の愛によって、私たちの命の時は無駄にされることはない。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる…ヨハネ13:34~35

 

聖書が示される愛とは未知を知るという感動を意味する。互いの間にそれを共有するという意味(ディアロゴス)となる。それゆえ、愛は固定(デジタル化)されることはない、常に発見(冒険、流星に乗って)を求めてさ迷うことになる。そして、中心(神の俯瞰)を通した十二の記号の一つである私は、世(騒音語という言語の海)を泳ぐ、一匹の魚(ファイト)としてイメージできる。ボロボロの肉体に、内なる精神性(時計は止まらない)という未知の旅は続く。

 

  • 我々の思考の論理が「同族」と「異属」とを区別する性質のものだとすれば、我々の範疇を混乱に陥らせることなく「異属」とのギャップを埋め、社会的、性的関係を確立するためにはどうすれば可能てあろうか。こうゆうわけで、神学は多種多様であるにはかかわらず、神話のこの局面は不変である。あらゆる神話体系のなかに、我々は二項区分の果てしない連鎖を発見する。たとえば、人/超人、死/不死、合法/非合法、雄/雌、善悪など。そしてこのように区分された一対の範疇の「調停役」がその後にあらわれるのである。「調停役」は第三の範疇(中間領域)を導入することによって実現され、それは通常の合理的範疇から見て「異常な」、あるいは「変則的」なものである。その結果、神話にはとてつもない怪物や神々の化身、処女なる母がたくさん登場するのである。この中間領域な異常であり、非、自然であり、神聖である…エドマンドリーチ
  • 『庸』については、現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる…ウィキペディア

24/3/20ブログ参照