24/3/25 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

相手に役立つ

互いの間に、相対立している自分と相手(ディアロゴス)がいる。間を利用して相手を利用する人と、相手の心を察して、相手に役立つ自分(能力)を行為で示す生き方とがある。二人の兄弟は、利用する側がカインであり、役立つ側がアベルということになる。アベルは我が身に与えられた一つの命(自らの賜物)を相手に使う生き方であり、カインは多勢を集めてそれを利用して、自らが偶像として君臨していく生き方を示していく。そして既成の宗教はカイン(世に見える建物)を通して知らされ、一人一人の信仰はアベルを通して告げられ行く。それゆえ、キリスト教会という集団(フィルド)は麦と毒麦が混在している状況だが、教祖(一つの教義に染められる)によって全体がマインドコントロールされていく。その結果、アベルは教義(カイン)を行使する集団に殺される。

 

ヤッファにタビタ、訳して言えばドルカス、すなわちカモシカと呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行ないをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リタはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリタにいると聞いて、二人を送り「急いで私のところに来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた…使徒言行録9:36~39

 

ドルカスの生前は、人々のために、カモシカのような感覚を行使して、人々

への必要を自らの仕事(賜物)で示し、その人々への施しをしたと、やもめたちの泣きながらの生前のドルカスの行為を称えた。それはアベルの信仰であり、偶像(カイン)の命令ではないということになる。

 

ペトロは皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロ

は彼女に手を貸して立たせた。そして聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた…使徒言行録9:40~41

 

信仰者にとって、生死の境界というものは消されているという意味であり、自らの肉体(感覚器官)とは何かが問われていることになる。カインは物(収穫、組織の歯車)として私たちを扱うが、アベルは一人一人の内なる世界観という精神作用を告げ知らせる役割を行使していく。宗教は言葉で語り、信仰は自らのカモシカのような躍動した感覚器官を使って、相手の必要を満たすための無言の行為(相対立する相手の心の内に必要を考える)を相手に示していくことになる

 

  • 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた、得体のしれぬ日常生活から、読書のおかげてしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合、一連のささやかな慣習的な手続きによって補強される浄めの儀式だということになります。このことから「白紙で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなかで果たす役割も明らかになります。我々の書物が紙(空間)が白いのは、書物(銀河鉄道)が我々に与えてくれる、此処とは違う他処が、読書のページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、我々の前に現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界の変革することの困難を前にしたときの失望落胆があまりにも大きくなってしまうため、読書は、むしろ好んでこの白さの宙吊りにうちとどまって、そこでようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかのこれらの記号のおかげて姿を現すものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるでしょう…Mビュートル
  • ギリシャ語で対話のことをディアロゴスと言うが、ロゴスとは言葉や言説を意味すると同時に、問題になっている事柄は真相や真理を意味し、また、ディアとは分ける、分かち持つという意味であるから、ここに対話とは、事柄の真理、真相を分けあうことであり、さらに、対話はロゴスに導かれて展開されるものなのである。つまり、対話というものは、話題の内に潜んでいるロゴスを分け合い、それに導かれて展開される場合に初めて、対話者の個人的偏見からまぬがれて、問題そのものに到達することができるわけである…中村雄二郎

24/3/22ブログ参照