24/3/24 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

有識者による無視

知識人という既成事実の塊のような石頭(メドウーサー)によって、私たちの心は無視(透明な風、無限の可能性)されているということであり、デジタル族とは、そのような記号の集積物(コンピュータ)として私は見ている。自分(整合性の世界)だけか常識であり、不可能な計算は世に存在しないと、カチカチと常にコンピュータのキーボードをたたいている。私にとって〝生成AI〟による文章はオリジナル(大学教授)と区別(学生)がつかない人工物であり、彼らは二次元の再生物(イイネという信奉者)を自分が創造したものと、神の領域に自分がいると豪語している。聖書も白紙に印刷された文字群(コピー、学問としての聖書)であり、コンピュータはそのすべてを記憶し網羅(ネットワーク)している。それゆえ、偉そうに聖書を片手に、それを自分の言葉のように強制してくる。

 

その翌日(ラザロの奇跡)、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って、迎え出た。そして叫び続けた「ホサナ、主の名によって来られた方、祝福があるように、イスラエルの王に」ヨハネ12:12~13

 

イエスの奇跡を知った群衆は、イエスを自分たちの神(偶像、有識者の代表)として、集団化していくことになる。イエスを取り囲み、大勢が、祭りの神輿として担ぎ上げ、ワッショイの掛け声とともに、エルサレムに入場するという光景が、この場面(ホサナ、ユダヤの王)ということになる。

 

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおれりである「シオンの娘よ、恐れるな、見よ、お前の王がおいでになる。ろばに乗って」…ヨハネ12:14~15

 

自分たちが考えたことのない状況変化に弟子たちの戸惑いの表情をしていることが読み取れる。世の偶像(ファリサイ派、律法学者)たちは、既成事実の羅列によって集団化をコントロールしていくが、イエスはその知識を無効にして、群衆の情熱によって神輿のように担がれていく。それは「理性」と「感性」の狭間であり、聖俗の間(担ぎ上げられ、十字架につけろと叫び続ける)という、世でも神でもない透明感(群衆の悪意の風)によって起こっていく

 

そこでファリサイ派の人々は互いに言った「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」…ヨハネ12:19

 

担ぎあげられた小羊であり、それは人々(群衆)によってイケニエとして神に祀られることになる。それは現実(偶像崇拝のファリサイ派、律法学者)ではなく、黙示録(神の秘めらた約束)として語られていく。宗教という形(言語の海、豚の心)ではなく、信仰という透明性は、生と死を通して永遠性を問いかけていく

 

  • メドゥーサの頭を見た者は、恐怖で硬直した石に変わる。硬直したものとは死体であり、そして勃起である。あらゆる王制の省略形たる石の男根、途方もない野心すべての最終目標、石が性器化されると、去勢(信者)と勃起(教祖)が同時に起こる…ノーマンブラウン
  • 修道院さま、あなたは「最初に翼がやってきて、ついで天使がやってくる」とおっしゃすましたが、私どもはそんな言葉を聖書では見たことがございません。どうすれば見ることができるというのかね。ああ、おまえたちの心はまだ眠っているのだ。預言書を開いても、おまえたちの目には文字しか見えない。だが、文字が何を伝えられるというのか。文字というのは、監獄の黒い格子にすぎぬ。そこでは精神が悲鳴をあげ首を絞められているのだ。文字と文字、行と行のあいだ、そしてまわりの空白の欄外を、精神は自由に巡っているのだ。私はこの精神とともに巡り回り、おまえたち修道士にこの託宣を運ぶ。よいか、最初に翼がやってきて、ついで天使がやってくる。霊は霊によって理解される。これはルターが語った言葉である…ノーマンブラウン

24/3/17ブログ参照