24/3/6 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

ゼロ(我が身)を通して

数字の世界に0(ゼロ)がなかったらどれほど不便かを知るのが信仰であり、信仰を知らない人々の心にはゼロの観念が欠けている。ゼロを消した彼らは、自分と相手を合わせた数(依存関係)を通して、奪った側(スター)と奪われた側(ファン)による集合体(イイネ信奉)の数を崇めていく。SNS環境とはその狂騒曲であり、騒音語(環境)であるメディアメッセージによって翻弄されていく。CMの文言ではイイネ(視聴率)を通して、その価値(多くの人々の支持を受けている)を宣伝していく。私は相手のイイネにゼロを掛けることで御破算にして、さて、あなたの真意は何ですかと問いかけていく。そして互いの間にゼロ(透明な空間)を、Xという可能性を掛けることを提案する。

 

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った「神の子から、これらの石をパンになるように命じたらどうだ」…マタイ4:1~3

 

イエスは空腹(ゼロ)を通して、世の価値(悪魔)と戦うという場面であり、私もそのステージに立つことになる。それは、ベケットの不条理劇のように「ゴトーを待ちながら」という言語とは何かを問う世界ということになる。世は知識()をパン(イイネ)に変換(工場経営者ソボー)という悪魔の誘惑によって成り立っていることを告げ知らされる。

 

イエスはお答えらなった「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある…マタイ4:4

 

聖書の霊が消されたまま、学問(社会的な権威)としての神学論を唱える人々の言動は、世の知識(法と秩序の整合性の管理下)のままであり、石(既成事実)を積み上げて神殿をつくっていく新興宗教となっていく。信者とは教祖の食い物(パン)にされていく。

 

更に、悪魔はイエスを非常に高い山にに連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。そこで悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた…マタイ4;8~11

 

断食とは世の価値を断つことであり、ゼロの自分を再確認する意味となる。世に私の価値などないという認識(私がいようがいまいが関係なく世は成り立っている)であり、数が質を津波のように押し流して時代は流れていく。私は世に誕生した、ではなぜ生きて行かなくてはならないのかという新たな設問(哲学)を意味する。キリスト教では「耐え忍ぶ」、と語り仏教では「忍土」と語られている。キリストの受難物語を無視して、神学知識で組織化される宗教(ファリサイ派、律法学者)との数(世の価値)と質(ゼロ、外に主張する言葉がない)の違いというこになる。

 

  • 娑婆(しゃば、さば、: sahā, サハー)は、仏教において、釈迦衆生を教化するこの世界、すなわちこの世のこと。仏教における三千世界の総称であり、娑婆世界、娑界ともいう。「サハー」には、その意味を表す「忍土(にんど) 」という意訳語もある。忍土とは、「苦しみを耐え忍ぶ場所」という意味である…ウィキペディア
  • 言語は自然に生じてくる。我々は文法のためのDNAを持ち、文章構成法のためのノイロンを持っている。言語をなくすことなどできない。人間は変化しながら、新しい道具や都市をいたるところにつくりだして、一つの文明から次の文明へと、這うようにして進んで行く。単語(人間)はそれ自体驚異である。どの単語も、その用途に合うように完全な工夫がこらされている。古くて力強い単語ほど膜(周辺)に包まれている。一語からなる詩のように、何層もの違った意味で包まれているのである…ルイストマス
  • ベケットの「ゴトーを待ちながら」のなかで、工場経営者のソボーが、インテリ奴隷のラッキーに命令する「考えろ、豚…考えろ」ラッキーはピリオドなしのつなぎう合わされた三ページいっぱいに続く長い句からなる言葉のサラダ(混ぜ合わせ)を大いに弁じ始める。そして、最終的には、舞台の上で失神してしまう…ロロメイ

24/3/2ブログ参照