24/3/5 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

自分の意志と神の御心

私の人生は、人々の生活とは逆の方向に神は私を導かれているように感じる。前日のブログに自分(否定)と相手(否定)を通してアンチテーゼを示したが、理解してくれる人はほとんどいない。私の人生は、自分の希望が打ち砕かれ、その度ごとに絶望(世の壁)を実感するということの繰り返しであり、それは今も続く私のイメージということになる。私の文章は相手の無視(逆の方向)を通して、それへの熱意という変な情熱によって生きている。私にとってそんな作家(私と同じ道)が安部公房ということになる。彼の全集に書かれた言葉が、いつも私を励ましてくれている。逆風を感じる皮膚(痛み、拳銃を向ける操作言語)が、新しい生き方を示す言葉を紡いでくれている。

 

死の縄がからみつき、奈落の激流が私をおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の綱が仕掛けられ入る。苦難の中から主を呼び求め、私の神の向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く…詩編18:5~7

 

雑踏のなかに私は他者と混在している影であり、世に同化された文章のなかに閉じ込められている。彼らは、雑踏(メディアメッセージ)によって右往左往に揺れ動いている。それが時代という怪物(膠着状態の戦場)であり、その怪物との対峙という生き方が聖書によって語られていく。それは人工に対する自然の猛威であり、明日をも知らない雑踏の生き方(株で大儲けして繁華街で飲み歩いた人が車で轢かれてお陀仏)ではなく、お陀仏(意味ないじゃん)を覚悟して今を生きる。それは自然をコントロールする神との和解を生きることになる。

 

主の怒りは燃え上り、地は揺れ動く、山々基は震え、揺らぐ、御怒りは煙を噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。主は天を傾けて下り、密雲を足もとに従え、ケルブを駆って飛び、風の翼に乗って行かれる…詩編18:8~11

 

人の命は神によって与えられているという自明を信じるとき、生きていることへの感謝が初めになければならない。そして、今、この瞬間に死を与えられても、それは宿命(与えられた命の時間)であり、自らの運命を恨むような生き方はしたくない。

 

主よ、あなたの叱咤に海の底が姿を現し、あなたの怒りの息に世界の基を示す。主は高い天から御手を遣わし私をとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、私を憎む者が勝ち誇っているが、なお、主は私を救いだされる…詩編18:16~18

 

私にとって救いとは、生きている気力を与えられることであり、世の重圧(生活の作品化ではなく)と戦ってこそ、自らの心は燃えることになる。

 

  • 生活の作品化を作家活動と信じ込んでいる人がいる。なにも、同人雑誌などのこもっている文学老青年だけとはかぎらない。いわゆる私小説作家と呼ばれる傾向の人たちはおおむねこの信念を自己の支えにしている。またその逆の立場である社会派の連中にしても、その点において大同小異である。彼らはその主義主張から、作家もまた、現実社会に参加していなければならないという信念を持っている。ところで、この生活主義に対置すべきものを一般に芸術至上主義と呼ぶらしい…安部公房
  • 人間は孤立しているのではなく、ある人と他の人との間の完全な関係のなかに人間学的に実存しているのである。その相互作用があって初めて、人類を十分に把握することが可能となる。その人間の存立のためには、人格的存在から人格的存在への関係が、仮象(世の現象)危険な具合に入りこまないことが要請される。それは自分を他者に強いようにと望まないことが、ただちに人間の間柄の第三の基本的前提となる…ブーバー

24/3/1ブログ参照