24/3/4 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

敵の敵は味方

敵対する相手は、私の影を通して自らの影を主張している。それは互いの欲望であり、野心であり、互いが世に所有している財産(知識の集積)ということになる。イエスは、知識というものを死とした心を伝えるために、相手の争いのもとである我が身をイケニエにしたということを互いに知るとき、闇(世の価値)に置かれた記号()を通した争いであることを知る。それは互いに世に同化されたそれぞれの記号に過ぎない。イエスはその世と対峙した光であり、影と影の膠着状態の間(境界、)に、信仰の通路を私たちに示されることになる。闇に包まれた場に光が灯され、互いが内なる光に気づくとき、互いに闇のなかを自らの光(生命)を通して自由に動くことができる。身動きができない膠着状態の心(いちじくの木)から、生(互いに神に対して心を動かす)としての歩みが始まる。

 

翌朝早く、一行は通りかかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」そこでイエスは言われた「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上って、海に飛び込め』と言い。少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる、だから、言っておく、祈り求めるものすべては既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何かの恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」…マルコ11:20~25

 

財産(アダムの権威)に対する所有欲(カインとアベルの兄弟)を互いに持つとき、互いに争いが起こることを、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナによって実際に引き起こされている戦争への膠着状態を世界の世論が彼らの膠着から分散できないということに気づかされる。金持ちの親の死と共に起こる親類縁者たちの財産分与の問題と同じであり、すべては権威への依存への欲望への主張(枯れたいちじくの木)ということになる。信仰とは、イエスの十字架(枯れたいちじくの木)を知ることから始まる。それは敵(自分を否定)と敵(相手を否定)との膠着の象徴(ドラクロアの絵)を意味する。私たちは十字架から離れ、分散された一人一人の心(人生とは我が身が外を取り込み楽しむもの)を通して、神への信仰(少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じる)を歩み始めている。

 

  • サルトルは状況を世界存在充実の中においての自由偶然性と定義し重要な概念の一つに挙げ、即自の偶然性と自由性の二つが組み合わさって成立する主観的でも客観的でもない現象(内なる心象)とした…ウィキペディア
  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩(心象世界)に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング
  • 『今昔物語』が書かれたのは今から約900年ほど前の平安時代末期、白河法皇や鳥羽法皇が世を治め、武士という身分が誕生した激動の時代(戦場)だと推測されています。正確な執筆時期や、作者が誰なのかはわかっていません。実は、正式な書名もわかっていません。説話がすべて「今は昔(スターウォーズに流れていくキャプション)」という書き出しのため、便宜的に『今昔物語』と呼ばれているのです…コトバンク

24/3/1ブログ参照