24/2/18 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

人間と神

聖書的な文脈のなかで巨大になりすきた文明都市、それが今の時代という難攻不落に見えるエリコの城塞都市というイメージとなる。コンピュータに都市全体が制御されたネットワーク環境であり、体系化された全体は張り巡らされた血管のように隅々まで通信網で張り巡らされている。私たちにとって仮想エリコとは一神教(コンピュータ)をイメージした強靭な知能国家(全体主義)ということになる。それはまた、スターウォーズのデススターをイメージできる。

 

モーセは彼らをカナンの土地の偵察を遣わすに当たって命じた。「ネゲブによって、更に山々を登って行き、その土地がどんな所が調べて来なさい。そこの住民が強いのか弱いのか。人数は多いのか少ないのか。彼らの住む土地は良いのか悪いのか。彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのが城壁があるのか。土地はどうか。肥えているのかやせているのか。木が茂っているのか否かをあなたたちは、雄々しく行き、その果物を取って来なさい」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった…民数記13:16~20

 

エリコの住人たちは自分を中心にした生き方をして、自分の知識で時代(価値に依存が前提)を切り拓くという野心によって時代を征している。それに対して、私たちは斥候のように、相手の現象(メディアメッセージ)に対して、隠れた忍者のような生き方を通して、神の御心を通した自分の立場というものを生きている。彼らは人工を利用した日々の生活であり、私たちは自然(透明感)を通した細々として目立たない貧しい生活を通して生きている。彼らが表舞台(格差社会のエリートというタテマエ)だとしたら、私たちは彼らが隠している忖度を消化した、神の御心の裏舞台のファンタジーを生きている

 

イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した「我々は偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々の見た民は皆、巨人だった。そこで我々は見たのは、ネフィリムなのだ。アナクのネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見たに違いない」…民数記13:32~33

 

絶望的に見える世(悪い情報)に対して、私たちは生き抜く手段というものを有している。それは相手を意識しないという考え方(ネットワークに流されない)であり、無意識(白紙の空間、霊的世界、傷口を見せるイエスと、それによって信じたトマス)という世界(差異、パラレルワールド)を通して自らの意識(孤立)を通した生き方を模索(暗号、絶望の先である白紙の上の文字)していく。

 

  • 真の絶望を持った人には暗さはなく。他者を躍動させ、活かす、ほのぼのとしたものかあることを、私はいつも不思議に思う。心に余裕のある。自分も他者も駄目にしていまう、感傷的な絶望(悪い情報)とは異なり、真の絶望とは、他者を活かし、自分を強く立たせる原動力なのである…福井達雨

パラドックス

我々の知覚過程が無意識的なものであるということは、いくつかの興味深い副作用がある。たとえば夢、幻覚、直観像など、イメージ形成が感覚器官からのインプットという規制なしに進行していく場合、そのイメージが表象しているものの外的実在性を疑うことが困難な場合(イエスとトマス)が生じる。その場合、逆にイメージ形成の過程などあまり知らぬ方が幸いだということもある。無知(見ないで信じる人は幸いである…ヨハネ20:29)であるがゆえに、五感の言うままを自由(グレース)に信じることができるわけだ。感覚器の報告にいつも疑いを抱いていなければならないとしたら、これは悲劇に違いない…ベイトソン

24/2/12ブログ参照