24/2/2 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

血と肉の象徴

多くの人々の読書(情報)とは、外(衣食住)を着るという意識(世間の格差)であり、多様な変身願望の流行に乗せられ、その誘惑言語であるメディアメッセージによって生産と消費のシステムに従事している。それに対して、私たちの意識は神による人間のシステム(内臓感覚)であり、世間と人間の間(境界線)というものに真のメッセージを求めている。世間とは=というヨコの言語群(両岸の間の時代という川の流れ)であり、結果(過去を通して未来)を求めて設計図を制作していく。そして私たちの表現は、今という‖相対であるタテの二本線の立場の間(ディスタンス)を求めることになる。結果を消した想像力(互いの内なる世界)であり、「=」「‖」の言語の違いということになる。ヨコは外(コンピュータ)によって結果(整合性)を外に示されるが、タテはそれぞれの内(感覚を通した言葉)とは何かを問う意味(どんな気分)となっている。イエスは、大人に対して知識(答えの決まった既成事実)で子どもたちの心をふさぐ表現に対して警告している。

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った…ルカ18:15

 

イエスの認識は「‖」という子どもの人格を認めた間(未知の世界)を通して、語っているのであり、弟子たちは経験則によって格差「=」を前提に子どもの心を無視していく

 

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子どもたちを叱ってはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」…ルカ18:16~17

 

世間体という無機質な言語群(コンピュータ)には、血肉という感情(アート感覚、共通感覚による以心伝心)がなく、人は相手を自分の物(操作)にしたくて誘惑言語によって血肉を外に表現していく。それが広告文であり、このように従えばこのようになるという結果(内に隠された計算ずくの忖度、機械のような心臓)を相手に伝えていく。米津玄師の「カンデン」は相対の間「‖」への問いであり、相手の操作言語の忌避(稲妻による壁の破壊)ということになる。

 

  • 自分の仕事を機械のように処理している人間はだれでも、機械の心臓を発達させるし、胸に機械の心臓をもった人はだれでも、その人間の純真性(生命から発する音楽的感性)を失うことになる。この純真性を失ってしまう人間は、その精神のはずみ(米津玄師のカンデンという元気の素)の面での不確かさは真理と相容れないものである…ロロメイ
  • 二つの時間、たとえば地震の地に住んでいる私たちはプレートの圧力の限界まで蓄積されたエネルギーの解放を待つ物理的(一寸先は闇)な時間(瞬間は永遠、境界上の生死は同じ、能登半島地震が起こり一瞬に命を落とす、生き残った人々は呆然と立ち尽くす)と、今一つは昨日のように今日があるのだから、今日のような明日があるはずだという思い込みの、日常の経験則の時間だ。物理的な時間は避けがたいことを知りながら、なぜか、経験値(コンピュータによる経験値からの因果の数値化)を優先させてしまっている。想像力の不足からくる楽観主義(組織の肩書族)が、盲人(聖職者という社会的な肩書)が盲人(信者)に連れられていく群れを描いだブリューゲルの絵を思い出す…安部公房

24/1/31ブログ参照