24/2/3 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

革袋の比喩

今、私は安部公房の「燃え尽きた地図」の表紙の猫の死体を見ている。そしてパラレルのイントロと重なる。相手は私(中心)に触れることなく去って行く。私は相手を去って行くままにする。彼はまるで鏡の映像のように、また影絵のように実体が消され、外の映像(二次元)にの地図に同化されていく。私の前の彼は、気分によって現れたり消えたりする幻であり、そんな彼のどこを信じればいいのだろう。私は肉体(革袋という感覚器官)という三次元を信じている。それは外の多くの人々と接して、その度ごとに悪口を浴びせられ傷付けられて、その底には悲しみ涙が溜まっていく。こんな我が身の実感(日々の生活)をじっと見守ってくれている存在、それは私にとって神の眼差しであり、信仰というタテ糸の世界(高くいます方よ)となる。

 

神よ、私を憐れんでください。私は人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなく私を虐げ、陥れようとする者が、絶えることなく私を踏みにじります。高くいます方よ、多くの者が私に戦いを挑みます…詩編56:2~3

 

信じていた友が、影絵のように私から去って行く。彼は時代の価値に溶け込んでいく方を選び、群衆に混じってその姿が見えなくなっていく。私には悲しみの涙が残されるが、彼には私を裏切ったという感覚(皮膚感覚)さえもなく、単なる影絵(世の言語)として、そこには私と共通するものが何ひとつない。あんなにも話し合ったのに、何一つ私の言葉が彼の心に入って行かない。すべて、鏡にはじかれるように、私の表現が反射されて私に戻さて来てしまい、私自身が彼に語れば語るほど自分自身が傷つくことになる。

 

彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し、諸国の民を屈伏させてください。あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記憶に、それが載っているではありませんか。あたなの革袋に私の涙を蓄えてくたさい。神を呼べば、敵は必ず背き、神は私の味方だと私は悟るでしょう…詩編56:8~10

 

私は世から神ゆえに孤立する。そして、彼らは世間に従う人間(影絵)であり続く、私は神の従う人間(心の世界)という〝差異〟を実感することになる。彼らには心(空白)を説明しても理解されず、逆に環境(世間体)という言語の海を心であると語っていく。空白の心に点在する私たちであるという発想(パラレル)が、彼らには通じない。

 

  • 躓きにおいてもまた同じような転換が見られる。すなわち、「自分の罪に絶望する」という段階から「罪の赦しについて絶望する」という段階を経て「キリストを否定する」という段階へ転換するのである。これは、聖霊を汚す罪だとキルケゴールは言う。そしてこの段階においては、情状酌量「同時」という語の第一の定義は、日常生活で用いられているものに、いっそう近いように思われる。というのは、二つの事象が同時かどうかという質問は、日常生活では基準系には関係ない。しかし、相対論的な定義では、どちらでも、この語は明確に定義されているが、その明確さということが日常生活の言葉には欠けている。相対性理論によって明るみに出された空間と時間の構造は、物理学のいろんな部門に多くの影響を与えた。運動する物体の電気力学は、相対性の原理から直ちに導くことができる…ハイゼンベルグ

24/1/27ブログ参照