24/2/1 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

聖霊という翼

風であり、火でもある。そしてあらゆるものにメタモルフォーゼする存在。それが聖書で示される聖霊であり、文化の礎(ファンタジーを支える想像力)を通して、文明(現実世界で通用する既成事実の言語の海)と対抗している一人の人間性(アーチスト)ということになる。それは、現実(ファリサイ派、律法主義者)という見える聖書の文字に対して、イエスが対立する形と形の間(エネルギー源)であり、今の時代では操作(コンピュータ)に対する遮断(無機質という本質)を通して、相手に通路(方向性)であり、水(透明な浄化)であり、火(情熱の怒り)を求めていく意味世界ということになる。その心境を聖句ではっきり示される。

 

しかし、私たちは信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それは世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。私たちが語るのは隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるための、世界の始まる前から定められておられたものです…第一コリント2:6~7

 

世の知恵(人を操作する支配者の言葉)に対する抵抗であり、相手(相手は誘惑言語を通して引き入れようとする)を拒絶(社会性)するのではなく、相手の思惑(隠された忖度の心の世界)を吐き出させるためのボケ(metaphor)ということになる。たとえば、操作の手(言語の構造)を遮断させ、相手の皮膚に触れる風として表現していく。その結果…

 

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは「人の目に見えず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かばなかったことを、神ば御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです…第一コリント2:8~9

 

相手の皮膚にふれる風を感じるのは、こちらの皮膚からの表現であり、透明な気配というものを実感できるのは、互いの間を行き来する聖霊の言葉ということになる。それには、世の操作言語が邪魔をするので、それを吹き払う殺意(相手のこちらに向ける憎悪の殺意)を表現していくことになる。それは〝消しゴム〟という透明性(暗闇に彗星の光)を求めていく表現(アート感覚)となっている。

 

私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして私たちか語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるものではなく、霊の教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません「だれが主の思いを知り、主に教えるのか」しかし、私たちはキリストの思いを抱いています…第一コリント2;12~16

 

透明性という部屋(個性)から吐き出される風は、複雑怪奇な迷路のすき間風に過ぎないということであり、その人自身はだれからも判断されたりはしないという生き方となる。そして、比喩(メタモルフォーゼ)を通したファンタジーの物語りを形成していく。

 

  • メタモルフォーゼの理念はきわめて尊いと同時に、きわめて危険な天からの賜物である。この理念は人を形のないところへと連れてゆき、知識を打ち砕き、それを消し去ってしまう。これこそまさしく遠心力であって、もしもこれと連れ合う反対の力が与えられなかったら、無限の彼方へ迷い込んでしまうであろう。私が言っているのは、特殊を志向する本能であり、一度現実にあらわれたものに粘り強く固執する能力であり、求心力である。求心力がその一番奥深いところにある限り、外界はなにも手を出し得ないのである…ゲーテ

24/1/17ブログ参照