24/1/18 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

状態を受け入れ委ねる

私の生活とは、外と内によって形成されている。外は客観(見える自分)であり、内は主観(見えない自分)ということになる。それによって外は他者の心という環境であり、内は自分の心という部屋(小宇宙)のイメージである空間ということになる。私は環境と空間の区別を通して、環境(言語の海)という他者性との混交による因果の自分が組み込まれている世界としての世間体であり、それを現象として把握し、その現象から、自分の空間(部屋)を守るためのドアを通して、心象世界というものを自分にしている。

 

さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです…フィリピ4:10~11

 

パウロの境遇という言葉の意図する自らを言い表す意味は、環境(言語の海)と空間(部屋)の間のドアの言葉ということになるのではないだろうか。それは「境」と「遇」との熟語であり、空間(境、差異)を信じ、遇(外の出来事と物事)という状況(現象の意味)を受け入れるという生き方を示していくことを習い覚えたと語っている。

 

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹てあっても、空腹てあっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処できる秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私はすべてが可能です…フィリピ4:12~13

 

自らの身体(生活という環境)は、神にすべて委ねているという生き方であり、ドアの内(空間)によって、外(環境)を生き抜く知恵(方舟という三位一体)というものを与えられていると語っている。百々迷路という環境(言語の海)を突き進む心境(空間)は、境遇(霊の受肉)を通して語られていくことになる。

 

それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教を初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした…フィリピ4:14~15

 

福音とは、ドアの内(現象に消された中間領域)であり、カインの環境にアベルの信仰(空間)を言い表すことであり、騒音と福音の違いというものを体得することの困難さは、自らの境遇への把握(ドアと外と内)を通さなければ実現(差異、言語の関係は逆向きに対立)できない。たとえば、将棋盤の王将(タテマエ)の裏(忖度)と戦う歩の裏(地下世界)は、同等の価値であり、忖度(王将)と心象()は表の世界では絶望(断絶)だが、裏での戦は永久(時の意味)に続いていく。

 

  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力(タテマエという機械の心)を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング
  • 「言語には対立しかない」とソシュールが述べているが、対立と同じ意味で差異性という語も用いている。対立によって言語は無(透明)から出現するのだが、彼はその無区分、無対立の状態のほうをも差異性と呼んでもいる。言語を生み出す差異と言語の前の無としての差異を、二つながら了解しておかなくてはならない…ウィキペディア

24/1/5ブログ参照