24/1/17 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

生活と生命

生きるとは肉体と精神を通して、二つの合体が我が身であり、社会は、この二つを一つの価値に分離させた文明(数の論理)として語っている。人々の集合意識(依存)を利用して自らの言葉で染めていく。それが社会教育であり、数を通して人を誘導する言葉(有識者)によって、数を集めた力(津波、メディアメッセージ)によって個という質を押し流していく。私は数に押し流された人々に対して抵抗する生き方を通して、自らの命を語っている。それは常識としての言語の海を、自らの〝方舟〟を通して語っていくことになる。それは、生活(貨幣価値)ではなく、生きる権利(誕生と死の間の時間)を主張する。彼らは時代に時を奪われた言葉によって語っているが、私は時というものを通して、沈黙(単語)の内なる世界(アート感覚)を語っていく。イザヤの嘆きをそのまま、私の心をイメージしてくれる。

 

神に従った人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても気づくものはいない。神にしたがったあの人は、さいなまれて取り去られた…イザヤ57:1

 

生活の組織化、生命の単一化、この二つを一つにするのが私の信仰を意味する世界であり、宗教(集団化)に対して心を一つに染める教祖の言葉を消すことから始まる。それは、社会と共存を謀る女まじない師とイザヤは揶揄する知識人たちであり、そして、中世では魔女狩りという反転(キリスト教会の維持のため)の世界が展開され、罪のない女性が殺された歴史が語られ、今も、宗教(イスラエルとパレスチナ)によって殺し合いが行なわれている。

 

しかし、平和が訪れる。真実(沈黙)に歩む人は横たわって憩う。お前たち、女まじない師の子らよ、姦淫する男と淫行する女の子孫よ、ここに近づくがよい。お前たちは誰を快楽の相手とするのか。誰に向かって大口を開き、舌を出すのか。お前たちは背きの罪が産んだ子らは偽りの子孫ではないか。大木の陰、すべての茂る木の下で身を焦がし、谷間や岩の裂け目で子供を屠る者ではないか…イザヤ57:2~5

 

私たちは世に沈黙(隠喩)している。そして無から表現していくことで、無に帰する言葉(空気感)によって語っていく。それは〝風〟であり、固定された海に起こる透明な波(浮き沈みている方舟)であり、相手の個性(単語)の内に響く言葉によって語っている。

 

助けを求めて叫んでも、お前の偶像の一群はお前を救いはしない。風がそれらをすべて巻き上げ、一息でそれらを吹き去るであろう。私の身を寄せる者がこの地の嗣業とし、私の聖なる山を継ぐであろう…イザヤ57:13

 

イザヤの言葉はクリスチャンによって相殺され、世の言葉に変換(トランプを支持する福音派の集団)されていく。世界は闇(独裁者、中国、北朝鮮、ロシアの連合)に包まれていく。宗教の恐怖は依存という組織化集団(砂の惑星)にされ、そのパワーですべてを破壊していく。

 

  • 社会の大衆化とは、中間的で自律的な共同体が弱体化し、解体して、裸で放り出された個人と、国家という茫漠として抽象的な社会との間に、ほとんどなくの遮蔽物もなくなった状態にほかならない。このような状態の原因はテクノロジーの空前の発展、高度の工業化であり、人類の歴史に前例のない空前の人類の大移動、大都市への急激な集中をらたらした茫漠(精神の砂漠)の地に、たった一人、根無し草のようなも裸の個人として放り出される。それに追い打ちをかけるようにマスコミュニケーションがブルドーザーのような平均値(画一的常識)を推し進め、均一化(メディアメッセージ)から漏れてしまう人々を変人あつかいにして排除(私のブログ)していく…安西徹雄
  • 現代人が形(shape)を与えようと努力している世界は、もはや彼ら自身の世界ではない。少なくともこれが、多くの芸術家や社会学者が我々の世界からの疎外を、あるいは私なりの言い方をすれば否定的擬人化の過程を話題にする際に語る不平である。我々の仕事、我々の制度、我々の環境はもはや、我々自身を反映していない。現代人の経験がこのような抽象化されたのは、測定可能なものへの偏愛(コンピュータによって実現可能な世界)の世界であり、人間的な形態(システム)を追放してしまったからである…ジョン・オニール

24/1/6ブログ参照