24/1/16 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

心ない人々

多くの人々は外(現象)に心を出してしまい、内(心象)に向けてメッセージしても、外で受けて、まるで鏡の映像(自他の混合)のように、私のメッセージが壁()にはじかれたように反射してしまう。その結果、私の言葉は相手の内に届くことがなく、外(相手の過去の実績)による判断により無視されていく。結果(因果関係の答え)は相手の不在(心象)を告げ知らされる。無視(結果の計画)とは互いの断絶(現実は、コンセントの抜けたコンピュータの素粒子の集合体)であり、オリンピックの設計(前提)は思惑(電通のコンセプト)が外れた真の結果(コロナにより無観客の競技場)にだれも責任(無駄)を負わない。接点(メタバースと現実のギャップ)なき平行線(差異)ということになる。相手のドアをたたいても、外に響く(音楽なき環境音)だけであり、相手の内(不在)に届かない。相手は私のメッセージを心ない暴力(社会常識のない狂人)として受け、私は相手の無視を心ない騒音(メディアメッセージ)として受けてしまう。まったく噛み合わない世界であり、彼らに心の動かない映像(二次元、設計図というメタバース)の波(日常のスケジュールに忙殺される思惑のデジタル環境)を私は実感してしまう。

 

お前たちは誰に似せ、誰に等しくしようというのか。誰になぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って、神を造らせ、これにひれ伏して拝む…イザヤ46:5~7

 

鏡の映像(外の心に集積した集団の群れ)という偶像(構造)のシステムに組み込まれた個性なき声(騒音、金を注ぎ出し、鋳物師を雇って神を造らせ)で拝んでいる人々、外(メディアメッセージ)の前提に自分が加工されていく人々、そしてメディアで自己主張(世を切り取った肩書)をして人々の影絵を、私は消してくれと叫んでも、無視されるだけということになる。そして、聖書では、神はその偶像()という土偶を切り崩し、単位(個性)の内(一粒の種)を見つけ出し、その種(心象)の可能性へのメッセージをしている。

 

背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ、思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない私は神であり、私のようなものいない…イザヤ46:8~9

 

人類の建設した文明(敷き詰められたコンクリートの壁)というネットワーク環境。そして私たちはコンクリートの内の土壌の種ということになる。私たちが呼吸し生き延びているのは、古くてひび割れた建造物(コンクリート)のすき間(瞬間は永遠という精神作用)であり、そこに咲く花ということになる。もちろん、見つかれば引き千切られる運命(人工物の美観にそこなう邪魔な雑草)だが、生命(生きている)という沈黙(心象世界)の叫びをだれかに伝えることができる。

 

  • 自分の仕事を機械のように処理している人間はだれでも、機械の心臓を発達させるし、胸に機械の心臓をもった人はだれでも、その人間の純真性(生命から発する音楽的感性)を失うことになる。この純真性を失ってしまう人間は、その精神のはずみ(米津玄師のカンデン)の面での不確かさは真理と相容れないものである…ロロメイ
  • 日本語の「精神」は、中国語に既にあったものを漢語系語彙として使用してきたが、文明開化以来、ギリシア語: Pneuma、ラテン語: spiritus、英語: spirit、フランス語: esprit、ドイツ語: Geist等の訳語として使われていることも多い。例えば日本語では「精神」と「理念」と「スピリット」などと別表記にして相互に関連が無いと思い込んでいても、元のインド・ヨーロッパ語族の話し手は同一語を使っており、なんらかの語感を意識して込めている場合が多い。また中国では、「精」と「神」とを組み合わせた古い漢語であり、元来は元気(時代を突き破って咲いている)やエネルギーという意味であった。これが今日のような「物質(コンクリート)」の対義語として使われるようになるのは、明治の日本ドイツ語のGeistなどの翻訳語に選ばれて以来のことである。インド・ヨーロッパ語族の語の示す概念の広がりと似ており、背景となっている「気」が精神と物質との双方を包摂した概念であり、「気」は純度に応じ「精」「気」「神」に細分され「精」においては物質的、「神」においては精神作用も行うとされる…ウィキペディア

23/12/26ブログ参照