24/1/15 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

私はではなく私のと表現

接続詞の「は」は主が自分となり、「の」は自分の他を指し示す。「の」の先が私を支えてくれる存在であり、私の文章は支えてくれる存在を通して綴られていくことになる。手(筆記用具)と足(移動)により、見えない存在(精神作用)から、外に見えるような文章として具現化されていくことになる。見えない存在(イエスキリスト)が、私(やもめ)を見ている。私は人の視線(貨幣価値)ではなく、心を見ておられる眼差しの意識が自らの生き方を整えてくれるのであり、心(イエス)と心()の間(霊の受肉、あるいは光のカーニバル)は世に透明(世間が消される)ということになる。

 

イエスは目を上げて、金ねもちたちが賽銭箱に献金を入れているのを見ておられた。そして、あるやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費(白紙に描く私のすべて)を全部いれたからである」…ルカ21:1~4

 

透明とは「は」の自分(行動)ではなく「の」の自分を表現(私の心を見ておられる)することになる。その文章は、単なる行動(見える姿)ではなく、行為(無為という神の御心)を有為(存在)とさせる文章となる。私たちの表現は信仰を通して、私が生かされているいう表現の先を指し示すことになる。そしてイエスは次に、飾りで誇らしげに建っている神殿に対して…

 

ある人たちが、神殿が見事な奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石(私はと着飾る自己中心の人々の心)も崩されずに、他の石(私のと指し示す心)の上に残ることのない日が来る」…ルカ21:5~6

 

今の時代のエネサレムは三つの宗教が三つ巴の争いの結果を指し示している。そして世界は、そのような宗教戦争の様相(争い、殺し合う獲得狂騒曲)を呈している。心のない宗教(枠組)という建造物(世界では膨大な数の宗教団体)が、献金(政治経済)の価値(覇権争い)を通して争っている。私は無宗教(透明)であり、ただ、幼子のように心(白紙の世界)に思ったことを素直に表現(アート感覚)しているに過ぎない。

 

  • 芸術(アート感覚)の基礎は情動的な把握、目に見える現象の背後に潜む「未知」への感覚、光の洞察と宇宙的気分を、目に見えるか聴くことのできる形式に再構成することである。事物と現象が魂となって顕現する感覚(自分と相手の共通感覚)である。完全な宗教はその構造に、宗教、芸術、哲学、科学を統合する。これは完全な芸術にもあたはまる。それに対し完全な科学(出来事と物事の整合性)あるいは完全な哲学(生き方)は、宗教と芸術を内包(心象)する。科学と対立する宗教、宗教と対立する科学、これはひとしく虚偽である…ウスペンスキー

反者道之動、弱者道之用、天下萬物生於有、有生於無

この世界の万象は「有」すなわち天地陰陽の気から生じ、その「有」はまた「無」すなわち、形無き道から生じる。道とは老子の思考を特徴づける「反」「弱」「有」「無」などイメージとして語られていく…老子

24/1/6ブログ参照