24/1/14 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

生きていることの実感

信仰へのイメージは、我が身は岸と岸の間(水の面)という場(方舟)に置かれているという認識であり、地図(敵と味方に分離)という左右に分かれた両岸(それぞれの枠組に安定を求める)が消された境界の場(中庸)に浮かんでいる不安定(コンパスが不在)な精神状態ということになる

 

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして舟に乗り、湖の向う岸のカファルナウムに行こうとしていた。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった…ヨハネ6:16~17

 

彼らにとってコンパス(羅針盤としての存在)のない小舟(不安定)であり、周辺(闇に包まれた広大な水面)という宇宙空間(暗闇)に置かれた地球(宇宙船地球号)のようなイメージで、この聖句(信仰の光)を読むこともできる

 

強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したことろ、イエスが湖を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた「私だ、恐れることはない」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた…ヨハネ6:18~21

 

信仰とは我が身(方舟)という不安定な旅路をイメージできる。それは地(敵と味方の混沌とした地図)を這うように進む肉体(蛇の支配下)と、その肉体を俯瞰している魂(方舟)という中庸の精神との合体であり、私たちは昼の言葉によって操作され、彼らに雑じった現象(闇に包まれた広大な水面)に包まれている。だが、イエス(内なる心象の中心)によって自らの方向を定めることができる。

両岸の論理は食べ物の論理(支配と服従)であり、存在の論理(生きている意味)でないということをイエスは伝えるために、間(透明)を通して向う岸に着いたことになる。

 

そして、群衆は湖の向う岸でイエスを見つけると「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた「はっきり言っておく。あなたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」…ヨハネ6:25~27

 

認証という存在としての信仰は、世には不在であるという証拠(しるし)であり、神と我が心との透明な契約(言語で証明することができない)ということになる。それは世の価値(敵と味方の枠組に分裂している心理現象)からの解放を求めることになる。信仰(イエスの似姿)を信じたペトロは水の上を歩くことができたが、外の雑音(自らの世の肉体の重さ)によって沈んでしまうことになる。

 

  • 『庸』については、現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる…ウィキペディア

24/1/4ブログ参照