「無謬性神話」からの脱却 | 北さんのブログ

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 菅首相の退陣表明で話題に事欠かない自由民主党総裁選挙ですが、我々、一般国民にとってはこの秋に必ず第49回衆議院総選挙が実施されます。このような状況下で選挙のたびに囁かれる有名な政治経済学の言葉である「合理的無知」が思い浮かびます。投票で候補者や政党を選択をするためには政策や情報を収集、精察しなければならないのですが、たかだか自分が1票を投じても選挙結果には影響せず便益を損じるだけなので政治、政策の勉強をすることも投票も行わないということです。みなさんはくれぐれも「合理的無知」の罠にはまりませんように。

 それはさておき、森友、加計問題以降、新型コロナ感染症に対する緊急事態宣言発令や、まん延防止措置等でも、その正否に関して「行政の無謬性」、「官僚の無謬性」という言葉をよく耳にします。「官僚や行政は間違いを起こさないし間違いを認めない。間違っていても謝罪はしない。」と誤った解釈で使われているようですが、本来「無謬性の原則」とは「為政者は政策や行為が失敗したときのことを考えたり議論してはいけない」が正しい意味です。そうは言っても官僚や行政は自らの間違いを認めないままごり押しします。「間違いを認めなければ間違いではない」、と言うような偏った無訂正主義で、「無謬性神話」、まさに「謝ったら死ぬ病」に罹患しています。実のところ、わが国の政策立案は経験や前例が重視され、科学的根拠を軽視しており、民間企業の様にPDCAサイクルは機能しませんし、官僚国家である日本において霞ヶ関の官僚の心の根底には「エリートである官僚こそが国を支配すべき」との思いが脈々と流れています。霞ヶ関にとって忠誠の対象は国民ではなく抽象的な日本国家であり、国民は有象無象で無知蒙昧なので誤りを認めるわけにはいきません。一方で霞ヶ関にとっては無知蒙昧によって選ばれた有象無象の代表である永田町の国会議員も同様に「謝ったら死ぬ病」に罹患しています。本来は間違いがあれば謝罪して訂正し、与党、野党が柔軟に協議して修正することが必要なのですが、現実には与党にとって政策の間違いを認めることは野党の責任追及、罷免要求の格好の的になるため行いません。「無謬性」を求める国民は永田町や霞ヶ関、どちらの間違いも赦すことはせず徹底的に糾弾します。このまま「無謬性神話」から脱却しなければ、向かう先はハンナ・アーレントの言うところの全体主義です。「無謬性神話」と独裁は表裏一体で、無謬性の為政者は独裁者を創り出すのです。自由な民主主義国家とは「無謬性神話」の呪縛から脱却し、可謬性、つまり「官僚、行政は失敗する」ことを許容しなければなりません。