北さんのブログ

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 新型コロナウイルス感染症のパンデミックも第1波からすでに第7波、2年半以上経過した現在ですがワクチン接種体制や経口治療薬開発の遅れ、そして科学的根拠に乏しい政府による行動制限などの新型コロナウイルス対応により、われわれは日常生活全てにおいて過剰なストレスと混乱の下に置かれています。そのため、高齢者を中心とした感染に対して非常に不安を感じている消費者をターゲットとし、断片的な科学的事実を上手に入れ込んで効果の確認できない商品を販売する、例えば二酸化塩素による空間除菌や空気清浄機などの「コロナウイルス対策便乗広告」が問題になったのはご存知のことと思います。

 このように、国家の政変、崩壊や破壊、自然災害といった惨事に便乗して儲ける状況を「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」と言い、2007年にカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが著したベストセラー書籍の名称が使われています。別名、「火事場泥棒資本主義」とも言われており、ナオミ・クラインの著書の中では、1973年、チリのクーデター後に国家を更地化し、そこに完全自由市場と言う新たな人格を植え付けるミルトン・フリードマンやフリードマンの薫陶を受けたシカゴ・ボーイズ(シカゴ学派)の新自由主義経済行動をその第一号としています。その他の具体例としては1989年、天安門事件、1991年、ソ連崩壊、2001年、アメリカ同時多発テロ事件、2004年、スマトラ島沖地震・津波、2005年、ハリケーン・カトリーナなどがあげられます。1982年、サッチャーがフォークランド紛争に便乗して労働組合をつぶし、2003年、イラク戦争占領後、アメリカは国営企業の解体、公務員の大量解雇し、市場経済導入。2005年、ハリケーン・カトリーナに被災したニューオーリンズでは義務教育の学校運営に市場原理を導入。教育の市場化を提案し多くの公立学校の廃止、教員の解雇が行われました。このような新自由主義経済の流れは日本において1997年、小泉内閣による消費税率5%引き上げによる日本経済のデフレとシカゴ・ボーイズの竹中平蔵氏主導の市場原理主義化と不良債権処理が行われ、経済格差の拡大とデフレの深刻かつ長期化がもたらされました。2011年の東日本大震災の後、「ショック・ドクトリン」の手法により仙台空港の民営化、水産業復興特区と称して漁業分野への大手企業の参入、原発事故後の再生可能エネルギー固定化価格買取制度導入が行われました。

 実は新型コロナウイルス感染症パンデミックにおける社会の混乱に乗じる、「コロナショック・ドクトリン」が既に日本でも始まっていたのです。経済面では、多くの中小企業や個人が困窮している中、某広告代理店や某人材派遣会社は「コロナショック・ドクトリン」を上手く利用し、国発注の大型公共事業やコロナ関連の大型案件を落札して高い利益を得ています。政策面ではコロナ禍の混乱下で打ち出された「成長政略実行計画」は、「新しい働き方」と称して労働環境の悪化を粉飾し、「デジタル技術の社会実装を踏まえた規制の精微化」は安全性を軽視した人件費、コスト削減を、「決算インフラのあるべき姿(キャッシュレス化)」は一部のプラットフォーマーへの利益供与にしかすぎません。

 「新型コロナ感染症は、あらゆる人々に分け隔てなく感染することで平等をもたらされている」と海外のセレブがコメントして物議を醸しました。確かにパンデミックはギリシャ語の「すべての人々」を語源としていますがウイルス感染は決して平等ではありません。感染のリスクがあっても生活の保証がなく自粛することが生活の困窮につながり、感染しても十分な休養、治療を受けられない多くの人々が存在するのです。

 今回の新型コロナウイルス感染症パンデミックというショックにより、平時には自由と平等として隠されていた多くの新自由主義の矛盾や事実、「命と暮らしは守れない」、ということが明らかにされてきました。今一度、故宇沢弘文先生が唱えられた「社会的共通資本」として医療や教育は市場に委ねてはならない、との教えを心に刻むべきであります。

皆さんは「老衰」と言う言葉に対して、どのような印象を持たれるのでしょうか。文字通りに読めば「老いて心身が衰えること」で、多くの方が「加齢とともに明確な原因もなく、生体のホメオスタシスの維持が困難となり衰弱してしまい、最後には生命活動が終わる」、いわゆる「自然死」と考

えられていると思います。

 実は、日本人の死因としての「老衰」は医療の進歩、診断技術の向上により一時、激減していました。私自身、大学病院での勤務時代、「老衰」を死因として死亡診断書を作成したこともなく、安易に「老衰」を死因とする事が医療の現場では避けられていました。ところが2000年を境に、死因としての「老衰」がU字型に増加しており、 18年が人には死因の第3位(1位:悪性新生物(がん)、 2位:心臓疾患)、21年には10人に1人が「老衰」の診断で亡くなっているのです。このように、「老衰」が死因として増加してきた理由にはいくつかの要因があります。まず、平均寿命が延び、高齢者の死亡者全体に占める割合が増加したこと。次に、 CT、 MR 1や病理解剖にて精査すれば死因の究明は可能なのですが、敢えて高齢者だから死因を「老衰」として受け入れよう、と言う社会的風潮の蔓延。そして、介護保険

制度が2000年に始まり、浸透してきたため、病院ではなく施設や自宅で亡くなる人が増加。その結果

として死亡場所の5割以上が介護施設や自宅になり、平穏死、天寿としての「老衰」を望む患者や家族が増えたことなどが挙げられます。この流れで行けば、超高齢社会へと進んでいる日本では早晩、「老衰」が死因の第1位になることは間違いありません。

 実は、「老衰」には明確な診断基準がありません。ICD-10(疾病及び関連保健問題の国際分類)で は分類 I D :200780449として記載されていますが、一般には疾病として扱われず、その診断には現場の医師の裁量に任されている点が非常に大きいウェイトを占めています。死亡診断マニュアルでは「高齢者であり、他に記載すべき死亡原因がない、いわゆる自然死」とありますが、高齢者といっても平均寿命以下では診断は難しいし、「老衰」がいつから始まったのかの判断も非常に困難です。「老衰」では積極的な治療が抑制され、一般に言みとうところの「看取り」の状態になるため、医療費の伸びが抑えられ、介護費用も増加しない傾向にある、との報告も見受けられます。今後は「老衰」の兆候を早期に発見することや、「老衰」患者さんのAC P (アドバンス・ケア・プランニング。将来の医療やケアについて、本人による意思決定を支援するプロセス)の確認が、更に必要かつ重要になってくると思われます。

 さあ、ここまで読んでいただいた皆さん、ご自分の死亡診断書に「老衰」を望まれますか。望まれませんか。

 

我が国の新型コロナ感染症対策での大きな問題として「医系技官」と「感染症ムラ」の存在があげられる。

まず「医系技官」とは医師免許(or歯科医師免許)を保有し、保健医療制度に関わる政策の立案・決定・実施に関わっている厚生労働省の官僚で、国家公務員総合職として現在約300名程度在職している。「医系技官」には行政官と医師としての両方の専門性が必要とされるが、他の国家公務員キャリア組と違い国家公務員試験が免除されており、無試験(一応、書類審査、小論文、グループディスカッション、面接、性格検査はある)で入省している。彼ら、彼女らは「小医は病を癒す、中医は人を癒す、大医は国を癒す」の言葉を好み、自らを大医と称しているのである。新医師臨床研修制度からは数年の臨床経験が必要になって入るが、一定の役職の医系技官の半数近くが臨床経験ほぼゼロの「ペーパードクター」であり、厚生労働省内で出世するには、医学部卒業後に医療現場での臨床経験を重ねるより、すぐに入省して官僚として務める事のほうが重要なのである。つまり、一般の医療や新型コロナ感染症の現場を知らない「医系技官」が指示を出し、混乱を生じさせているのである。結果として新型コロナ感染症の無症状感染者がいるのに、無意味で旧泰然とした結核時代の積極的疫学調査(濃厚接触者を一生懸命に探し出す)に固守したうえ、陽性患者数抑制のためのPCR検査抑制方針と併せて、無症状感染者による市中蔓延を引き起こしたのである。

一方の「感染症ムラ」も問題山積である。昨年8月の時点で「3回目ワクチンの早期接種が必要」、と英国の公衆衛生当局の研究結果が発表され、主要各国は直ちに追従。イスラエルでは3回接種で2回接種に比べ死亡率が10分の1に、またロサンゼルス市では3回目接種でコロナ感染リスクが44%、入院リスクが77%減少した、と報告されながら国立感染症研究所、脇田所長は3回目の追加接種の必要性を留保してしまった。そのため日本以外のG7諸国はオミクロン株流行以前にほとんどの高齢者は3回目を接種したのに比べ、日本は7割以上の高齢者が3回目未接種で第6波に突入してしまったのである。更に、3月、ロシアのウクライナ侵攻報道に隠れるかのように脇田所長がメディアに対して「新型コロナは空気感染である」旨、やっと認め公表したのである。既にWHOやアメリカのCDCは主要な感染経路は空気感染(空中浮遊のエアロゾルを通して)と公表していたのに、「新型コロナウイルスの感染経路は飛沫感染と接触感染」を頑なに主張していたのであり、明らかに世界レベルから感染症対策の未熟さを暴露したのである。

我が国において新型コロナ感染症対策が迷走しているのは、海外のように臨床研究成果を公表し、議論を行うのではなく、仲間内である「医系技官」が決定し「感染症ムラ」に追認させているからであり、根本的な改革が必要である。

 日本国中が衆議院議員選挙一色で夜も日もあけず盛り上がっている真っ最中で、今回の衆議院選挙は未曾有のコロナ禍の下、今まで以上に現在と将来の日本のあるべき姿をしっかりと見据えなければならない非常に重要な選挙です。選挙関連で思い出せば6年前の兵庫県医師会報の巻頭文、「一筆啓上」で、若者世代の政治参加を「ブルー民主主義」と書かせていただきました。これは若者に比べ投票率の高い高齢者が多数派になるため国が高齢者に阿り、民意の代表として高齢者の意志が過剰に政策に反映される「シルバー民主主義」と対比するために私が作った造語で、「若年者」→「尻が青い」→「蒙古斑(モンゴリアン ブルー スポット)」の連想によるものです。平成27年の改正公職選挙法で選挙年齢が18歳以上に引き下げられてから早6年。「ブルー民主主義」が一部のポピュリズムに惑わされることなく、どのような結果をこの選挙に与えるのか注視しています。

さて、このような年齢によるレッテル貼りとしての世代論は実のところ一部では「時代錯誤である」、「世代を一般化する誤謬」とも揶揄されています。しかしながら一方ではアメリカの「フォース・ターニング(第4の節目)」、日本では「団塊世代」や「ゆとり世代」などとして幅広く使われており、それそれの時代の社会環境や価値観、生活様式の差異、つまり世代共通の通過体験が個人の思考や消費に与える影響は非常に大きな意味合いを持っており、世代論を語ることは非常に有用だと考えております。もはや「シルバー」、「ブルー」などと言うような単純な分け方ではなく、代表的な世代区分としては「戦前世代」、「戦中世代」、「団塊世代」、「断層世代」、「新人類世代」、「バブル世代」、「団塊ジュニア世代」、「ゆとり世代」、「脱ゆとり世代」などがあります。特に「ゆとり世代」以降、1980年以降に生まれた世代は、社会環境の著しい加速度的変化のために今まで以上に世代間ギャップが非常に大きく看過できないものとなっています。

 まず、「ミレニアル世代」、別名「Y世代」は1980年から1995年頃に生まれた世代で、世界人口の4分の1を占めています。マルチメディア環境、インターネット環境の飛躍的な進歩とともに成長していき、次の「Z世代」と合わせて「デジタルネイティブ世代」とも言われております。デジタルの台頭により社会が一変するのを同時かつ鮮烈に体験した世代であり、SNSによるコミュニケーション構築やインターネットでの情報検索などに長けており、ITに非常に高い親和性を持っています。この世代はインターネットやSNSで数多くの個人と接触していることにより多様性に寛容であり、ボランティア活動にも積極的に参加しています。

次の「Z世代」は1996年から2015年頃に生まれた世代で、「ミレニアル世代」を凌駕し、世界人口の3分の1を占めています。生まれたときから インターネット環境が周りに整っており、スマートフォンやタブレットを絵本や子守歌がわりに育ち、まるで体の一部のよう使いこなしています。インスタグラムを多用し、特定少数のグループとの情報共有を好みます。

この「ミレニアル世代」や「Z世代」は将来への懸念(就職難や格差拡大、気候危機)を強く持っており、一部が左派的な社会運動を繰り広げており、「ジェネレーション・シフト」とも呼ばれています。

既に「ポストZ世代」が生まれています。「α世代」と呼ばれ2015年から2020年代中頃にかけて生まれるビフォーコロナ時代を全く知らない「ミレニアル世代」の子供世代です。変化のスピードがあまりにも早すぎる為、この世代が活躍する2030年から2040年頃に一体どのような価値観や行動形式が形成されるのかを想像すると気が遠くなるほどです。

長々と世代に関して書きました。医師ではあるが世代が違う父や叔父とは単に医学知識だけではなく人生観、死生観などの価値観や診療に対する意識、態度ともに大きく異なりました。同じように医師である息子達や甥も私の医療に対する行動や価値観を理解出来ない面が多々あるようですし、医師会員の中での世代間ギャップも著しいものです。マイノリティが近年、広く認められてきているのに「あの世代は何を考えているのかわからない」と世代間では、ある種の防衛反応としてまるで未知な者に対するような不安や怖れ、諦めや排斥があります。世代論は有用ですが過剰、かつ誤って認識した先入観は私たちがなくそうとしている様々な社会的対立の開始点ではないでしょうか。非常に難しい問題です。

 菅首相の退陣表明で話題に事欠かない自由民主党総裁選挙ですが、我々、一般国民にとってはこの秋に必ず第49回衆議院総選挙が実施されます。このような状況下で選挙のたびに囁かれる有名な政治経済学の言葉である「合理的無知」が思い浮かびます。投票で候補者や政党を選択をするためには政策や情報を収集、精察しなければならないのですが、たかだか自分が1票を投じても選挙結果には影響せず便益を損じるだけなので政治、政策の勉強をすることも投票も行わないということです。みなさんはくれぐれも「合理的無知」の罠にはまりませんように。

 それはさておき、森友、加計問題以降、新型コロナ感染症に対する緊急事態宣言発令や、まん延防止措置等でも、その正否に関して「行政の無謬性」、「官僚の無謬性」という言葉をよく耳にします。「官僚や行政は間違いを起こさないし間違いを認めない。間違っていても謝罪はしない。」と誤った解釈で使われているようですが、本来「無謬性の原則」とは「為政者は政策や行為が失敗したときのことを考えたり議論してはいけない」が正しい意味です。そうは言っても官僚や行政は自らの間違いを認めないままごり押しします。「間違いを認めなければ間違いではない」、と言うような偏った無訂正主義で、「無謬性神話」、まさに「謝ったら死ぬ病」に罹患しています。実のところ、わが国の政策立案は経験や前例が重視され、科学的根拠を軽視しており、民間企業の様にPDCAサイクルは機能しませんし、官僚国家である日本において霞ヶ関の官僚の心の根底には「エリートである官僚こそが国を支配すべき」との思いが脈々と流れています。霞ヶ関にとって忠誠の対象は国民ではなく抽象的な日本国家であり、国民は有象無象で無知蒙昧なので誤りを認めるわけにはいきません。一方で霞ヶ関にとっては無知蒙昧によって選ばれた有象無象の代表である永田町の国会議員も同様に「謝ったら死ぬ病」に罹患しています。本来は間違いがあれば謝罪して訂正し、与党、野党が柔軟に協議して修正することが必要なのですが、現実には与党にとって政策の間違いを認めることは野党の責任追及、罷免要求の格好の的になるため行いません。「無謬性」を求める国民は永田町や霞ヶ関、どちらの間違いも赦すことはせず徹底的に糾弾します。このまま「無謬性神話」から脱却しなければ、向かう先はハンナ・アーレントの言うところの全体主義です。「無謬性神話」と独裁は表裏一体で、無謬性の為政者は独裁者を創り出すのです。自由な民主主義国家とは「無謬性神話」の呪縛から脱却し、可謬性、つまり「官僚、行政は失敗する」ことを許容しなければなりません。