高知医大の学生時代とカルペ・ディエム | 北さんのブログ

北さんのブログ

ブログの説明を入力します。

 

イメージ 1

 

 

イメージ 2

 

 大学卒業後、4年ごとに開いている「高知医大1期生同窓会」。今年は猛暑の8月、高知で行われ、恩師の円山先生(元、第一病理学教授)、小川先生(元、放射線科教授、前、加古川医療センター院長)の出席のもと、32名の同級生が出席して開かれた。気がつけば大学卒業から34年が経ったが学生時代の思い出は色褪せることはない。流石に皆、還暦前後になると男性、女性かかわらず、誰かわからないぐらい劣化した者もいるし、教授から病院長、開業医、病気で在宅加療中まで色々である。しかしながら会えば直ぐに学生時代にタイムスリップしてしまう。未だに学生時代に麻雀で負けたこと根に持つものや、警察まで私が身柄を引き取りに行ってやった苦しい弁明をするものなど、学生時代のでよもやま話で盛り上がった。
 どこの大学もそうであろうが1期生は特に仲が良い。私にとっては1期校に落ち、親父と叔父が旧制高知高校で「おまえ受けろ」と言われ海を渡って辿り着いた四国、高知。40年以上も前、民放TVは2局のみで週回遅れの再放送ばかり、インターネットもなく、高速道路も本州と四国を結ぶ橋もない、わけのわからん「南国市」の名称の沼地に集まった同級生たち。当時は研究棟、臨床棟、病院、グラウンド、体育館、学食も何もなく平屋の教養棟、解剖実習棟と校門のみ。入学した102名(そのうち自主退学2名、留年2名、死亡1名)は、いわば田舎の分校の生徒たちの様であったから仲が良いのも当然かも知れない。共通一次試験前年、最後の2期校だったせいか約30倍の中、関西勢が4割で関西弁が飛び交い、地元、高知は10数人、女子学生も10数人であった。カネがないのに毎晩のように高知の街や友人の下宿、アパートで飲み会三昧。誕生日のプレゼントがないのでお店の天狗の面をプレゼントとして拝借、大雨の桂浜で同級生、数十人で月見?の酒盛りなど、したい放題。私もサッカー、サーフィン、ウィンドサーフィン、ラグビー、スキーと自由闊達の学生であった。当時40前後の若い教授、助教授の先生方は皆、熱血感にあふれており、学生の自由奔放さをすべて受け止めてくださった。今の息子たちの医学生時代とは大違いで、代返は日常茶飯(複数が同時に返事して代返がばれても叱られることなく)、授業の途中で窓からスポイルすること数え切れず、偉そうな教授の授業をニセの掲示板通知で何度か休講にし、授業、部活が終わると研究棟にお邪魔して研究室で毎晩のように酒盛り。再試もビーコン、テトラコンどころか私は生物学ではヘキサコンまで行き、最後は教授室のホワイトボードを使ってマンツーマンの試験をうけたほどだった。最大の恩師で、指導教官かつ学生時代に入局した第一生理学の瀬戸先生(元、高知医大副学長)の授業も全く出席せず「解答の横に書いた試験の自己採点が正確である」、とのお褒めの言葉をいただき55点を60点に繰り上げ合格。免疫学の藤本先生の試験は教科書でもなんでも持ち込みOKであった。流石に卒業試験では、赤門出身を鼻にかける第2内科の卒試を白紙で出したときには教授会で大問題になったが。
 先輩がいないことは気楽であったが色々な情報がなく、皆手探りで学生生活を過ごしていた。それでも新設医大としては初めて医師国家試験合格100%を達成した。卒後、すぐに地元、兵庫医大第一内科に入局し、先輩のいる有り難さが身にしみた。一緒に兵庫医大に入局した澤井、柴原先生、2人共、兵庫医大の産婦人科の教授になってしまったが、卒業式のために一緒に貸衣装屋に行った(私はタキシードを、2人は紋付き羽織袴を)ことも、つい昨日のように思い出される。
 還暦を迎え、過去に感傷的になっているわけではないが、今年は身近な人を多く見送った。寺山修司の「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ。」ではないが、今や毎日が「カルペ・ディエム」状態である。