すなわち、立てば立ったところ、すわればすわったところ、そこがみな悟りの世界に直結しているということ、目にふれ耳に聞こえるすべてのものが、本分の家郷への道ならざるはないということです。
蘇東坡が、
渓声便是広長舌 山色豈非清浄身
といっているのも同じ意であります。
わたくしたちは、あまりにも近すぎ密接すぎて、かえって気づかずにいるわけです。
またこの語は、いろいろ進む道は違っても、その目的、到達するところは一つであるという意味にもとられています。
分け登る麓の道は多けれど
同じ高嶺(たかね)の月を見るかな (一休禅師)
仏教には大乗あり小乗あり、聖道門あり浄土門あり、あるいは顕教あり密教あり、各宗派に分かれ、坐禅だ念仏だ題目だとやかましくいうけれども、その目的とし到達するところは、みな同じく悟りの帝都にほかならないということであります。
(了)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。
仏教のすべての宗派が求めるものは同じ悟りだということは分かりますが、「立てば立ったところ、すわればすわったところ、そこがみな悟りの世界に直結している」ということは、まだまだ分かりません。
体験しなければ分からない世界なのでしょうか。