大道長安に透るーまったくそのとおりで、随の文帝(541~604)によって企画され建設された長安の都は、唐に受け継がれて繁栄の一途をたどり、玄宗帝(685~762)の治世にはその繁栄の極に達し、大運河や道路は長安を中心に文字どおり四方八方に開かれていました。
趙州はこの現状をもって答えられたのですが、まことに、垣根の外にあるような小道であろうが国道であろうが、すべての道はみな帝都長安に通じているのです。
いわゆる「世界の道はローマに通ず」であります。
ところで、この帝都というのは、禅ではこれを諸仏諸祖の腰のすえ場、悟りの世界、本分の家郷にたとえられています。
余談ながら、いろは四十七文字の終わりに「京」の一字が加えられていますが、これもいわゆる「有為の奥山今日こえて、浅き夢見じ酔ひもせず」という涅槃寂静(悟り)のところを、京の都にたとえたものであります。
したがって、「大道長安に透る」とは、すべての道は悟りの世界に通じているという意味であります。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。
大道長安に透るというのはいろいろな意味があるんですね。
学校で百人一首は習わなかったので、いろは四十七文字の話はよく分かりませんでしたが。。。