さて「即心即仏」というのは、「即」は不異の義ですから、わたくしたちが生まれながらにしてもっている心、そのままが仏であるということです。
清涼大師澄観(ちょうかん) (737~838)が、『華厳大疏』の序の中で、
「凡心に即して仏心を見る」
と述べておられるように、惜しい、欲しい、憎い、かわいいの凡心、そのままが仏心なのであります。
修行をして凡夫の心を取り除き、新たに仏心を入れ替えるというのではありません。
悪しきとて只一筋に捨てるなよ
シブ柿を見よ甘干となる
で、つるし柿は、柿のシブを抜いてしまって外から甘味を注入するわけのものではないでしょう。
シブがそのまま甘味となるのです。
シブ即甘味であります。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
惜しい、欲しい、憎い、かわいい等の心がなくなって仏心になるような気がしていましたが、そうではないのですね。
シブ柿のシブを抜いて甘味を入れるのではなく、シブがそのまま甘味となるように、惜しい、欲しい、憎い、かわいい等の凡心がそのまま仏心となる。
と言われても、実際どういうことか、まったく分かりませんが。