さて、二僧が「風動」「幡動」と争っているのは、あくまでも、風とか幡を自己と分離対立させ、客観的にながめての論争なのです。
これに対して六祖が「心動」といわれたのは、そういう二見対立を逸脱した不二一体の立場からです。
すなわち、六祖にとっては、風が心であり、幡が心であり、ないし、見るもの聞くものがことごとく心なのです。
もちろんこの心というのは、普通にいうところの心ではありません。
言いかえるならば自己ということであります。
風がそのまま自己であり、自己がそのまま風である、幡がそのまま自己であり、自己がそのまま幡である、更に、世界がそのまま自己であり、自己がそのまま世界である、そういう不二一体の妙境なのであります。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
これは思っていたよりも深い意味なのですね。
「風だ」「幡だ」と論争していた僧たちの心が無駄に動き回っているというような意味かなと思っていたのですが、そんな浅い意味ではなく、もっともっと深い意味であったことに驚きました。
こういう衝撃は心地よいものです。