さて、「応無所住而生其心」を訓読すると、「応(まさ)に住する所無(ところな)うして其(そ)の心(しん)を生(しょう)ずべし」となります。
これは釈尊が十大弟子中解空(げくう)第一と称せられた須菩提(しゅぼだい)に対し、心の持ちようの急所を教えられた一節で、『金剛経』には、
この故に、須菩提よ、諸々(もろもろ)の菩薩摩訶薩は応(まさ)にかくの如く清浄心を生ずべし。
応に色に住して心を生ずべからず。
応に住する所無うして其の心を生ずべし。
とあります。
「住する」とは、止住、住著の意で、心が一つ所にとどまることを申します。
すなわち、心をひかれること、とらわれること、執着心を起こすことであります。
けだし、これがわたくしたちの迷いを生ずる根本原因なのです。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
確かに執着心がなかったら、この世はもっと楽に生きられるだろうなあと思います。
しかし、その一方で、執着したくなるものがなかったら、この世は味気ないものになるかも知れないとも思ってしまいます。
これが迷いなのかも知れませんね。