【閲覧注意】4うちのパパさん | オリーブママのぶきっちょ子育て成長記

【閲覧注意】4うちのパパさん

オリーブママと申しますウインク

お読みいただき

ありがとうございますドキドキ

主人  54歳   

私   48歳  
長男  高3          
長女  中3          
Bくん 10歳  

大切な家族と
子育てが中心のブログになります
音譜

いいね👍ありがとうございます

 

注:このページは前回からのつづきと

なります

親から受けた

パワハラやDVの内容となります

また今回は乳がん内容にもなります

読みたくない方はここでページを

閉じてください

 

 

 

 

 

こんばんは♪

前回からの続きです

 

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今にも雪が降るのではないか

という寒い夜

私はちょうど仕事が終わって

夕飯の食材を買いに行く途中

パパさんから電話がきました

 

今すぐ病院に来てくれ

母が危篤なんだ

電話の向こうのパパさんは

私の知っているパパさんではなく

小刻みに声を震わせているのが

わかるくらい

か細い声でした

 

病院へ着くと目をつむり

呼吸が荒くなっている母を見ました

その時に初めて父と妹に会いました

話で聞くよりだいぶ小柄な父は

職人らしく浅黒い肌で

隅っこに座っていました

遠くを見つめているのが

何とも寂しげだったのを

覚えています

3/2深夜から3/3お雛様の日に

日付が変わった時母は旅立ちました

パパさんは

自分の責任は

これで終わった

できることは

精一杯やった

後悔はない

母が亡くなった時

パパさんは泣きませんでした

 

葬儀が終わるとパパさんはすぐに

私が当時住んでいた

アパ-トに引っ越してきました

すでに私の両親には結婚の挨拶が終わっていました

妹は母が亡くなるとほとんど

家に帰らなくなった

結局父1人となりました

 

私のおなかに長男くんがいたとき

パパさんと残りの荷物を取りに実家へ

行きました

仕事から帰ったばかりの様子の父は

居間で食事をしていました

パパさんは会話もなく

二階へ上がり必要な荷物を

取りに行きます

私が仏壇に手を合わせていると

「どれくらいで産まれるんだい?」

と私のおなかを眺めながらにこやかに

微笑んでいました

あと2か月くらいですね

「そうか~大事にね」

後にも先にも父と会話をしたのは

これが最後でした

お仏壇が大きすぎて

アパートには入れられなかったため

現在の我が家が完成するまで

実家にありました

長男くんが誕生した年の

翌正月

公衆電話からの着信で

電話に出たパパさん

電話の相手は父でした

「無事産まれたか?

男の子か?女の子か?」

パパさん

「あんたに関係ない」

と言うとすぐに電話を切りました


そこから亡くなるまでの間

何度か携帯に電話がかかって

きたらしいですが

パパさんは一切出ませんでした

 

父が倒れていて病院へ運ばれたと

連絡がきたのはそれから

2年後のことでした

たまたま家に寄った妹が発見し

救急車を呼びました

反応はなく呼吸はしていたらしいです

私達が病院に着いたときは

亡くなっていました

 

父の葬儀の時

父方の兄弟から口々に言われたのは

あんた達兄妹は本当に偉かった

どうしようもない親だったけど

最後までしっかり見送ってくれて

ありがとう

でした

パパさんは父の遺骨を母が入っている墓には

一緒に入れないと言っていましたが

最後は夫婦一緒になれるようにしました

 

幼少期から父の暴力と貧しい家庭環境

お料理が得意ではない母が

煮物を作ると

醤油の味しかしなかった

はじめてお弁当を作ってもらっても

醤油味しかしない焼いた肉が

白米に包まれただけの

とてつもなく大きくて

まんまるのおにぎりが1個

御飯が冷えるとお肉の油が

固まっていて衝撃的だった

 

清掃員のパートを

早朝から入っていた為

パパさんは中学校から

自分でお弁当を作って

持っていくようになる

おかずは決まって

焼き鮭と卵焼きだけ

弁当箱のタッパ-は

ほとんど白米で埋められた

調味料は

醤油・砂糖・塩

しかない家だった

授業参観には来てほしくなくて

普段は化粧なんかしないから

ここぞとばかりにおしゃれをすると

服は

知り合いの友達から借りた

派手派手のワンピース

志村けんがコントでするメイクを

そのまま再現したおばさん

で本当に恥ずかしかった

 

中学校の制服も全てお下がり

部活はサッカー部

スパイクも買えずスニ-カ-

どうしても欲しいとお願いして

買ってもらったスポーツソックスは

すぐに敗れるほど練習した

新しいものが買えず敗れた

スポーツソックスの下に

白い靴下をはいて誤魔化した

成績が怪しくなってきた高校受験

私立に行けばいいじゃない

とお金がないのにあっけらかんと

発言する母

貧乏だったけど母がいたから

頑張ってこれたし

なんとかして楽させてあげたい

と思った


父との思い出は

純金の塊の指輪をはめた

その手でいつもグーや平手で殴られた


 

パパさんにとって

母はずっと大切な存在です

 

勉強が得意ではなかった

パパさんでしたが

長男くんや長女ちゃんを見ていると

できれば俺も

昼間の高校に行って

大学へ行きたかったよ

と言っています 

 

 

長々4回にわたり

うちのパパさん

にお付き合いくださいまして

本当にありがとうございます

私の育った家庭環境なんて

大したことない!

って思うくらい酷かったパパさん家


妹も妹なりの苦労があり

父だけは絶対に許さない

と言っていました

妹は家庭を持つことも

男性にも恐怖心や不安があるように

伺えました

最近まで独身でしたから

 

現在、妹とは一緒に仕事をしており

兄妹関係も絆が深いため

助け合っています

だいぶ妹に助けられています

うちの子たちも上が兄・下が妹の

兄妹なのでいい影響を受けています

 

さてここからはサクッと余談にも

お付き合いいただければと思います

 

ついでのお話

 

パパさんと私は同じ会社の社員でした

残業で残ると夕飯を

ご馳走してくれたり

本当にいい先輩でした

(私は事務方)

不動産の営業マンは

結構チャラチャラした人が

多いなと思う中

店に来る大工さんや設備屋さんとの

やり取りもそこでの信頼関係や

人格と人柄は仕事にも

通ずるものがありました

休みの日でも嫌な顔しないで

現場へ出てきてくれるマメな男

職人さんにとって

1番嬉しい存在です

 

幸せな生活を実現するために

人生を左右するような

大きな買い物がマイホーム

必ず

買ってよかったと

満足してもらいたい

だから手は抜かない

自分が住宅ローンの支払いの重さを

身に染みてわかっているから

そこに後悔なんてさせられない

 

そんな人なんです

 

 

私は当時付き合っていた彼氏と

喧嘩した時や愚痴を話すと

嫌な顔もせず

親身になって話を聞いてくれました

結局彼氏と別れた時は

やけ酒だ!って

飲みにも連れて行ってくれたり

頼りになるお兄さんのような存在

だったパパさん

 

仕事で一緒に外出する機会も多く

そんな時は色々自分の話を

してくれました

パパさんは会社ではプライベートが

謎の人と言われていたくらい

あまり自分の話をする人ではなかったので

意外でした

パパさんの母が乳がんを

患っていてもしかしたら長くないかも

しれないこと

自分が幼少期から

受けた父の暴力のこと

現在に至るまでの

家庭環境全て包み隠すことなく

話をしてくれました

私は私で隠すことなどないので

自分の生い立ちを話ました

お互い大変ですよね~

って笑い合っていた

 

パパさんはいつも

自分は結婚には向いてない

家庭の温かさや団欒というのを

知らない

て言っていた

当時はあまり突っ込んで

聞かなかったけど

母は病気を抱えているし

暴力を振るう父の子

だから

自分は絶対に暴力は振るわない

って思っているけどもしかしたら

蛙の子は蛙かもしれない

という不安なのかな?

幸せというのがわからないから

作り方も知らない

自信がないということなのか?

意味は様々だと思いました


 

ある時何も前触れなく

ふとパパさんが

〇〇ちゃんには

幸せになってもらいたいな

必ず幸せになれよ!!

と私に言いました

 

大丈夫です‼️

私は絶対に幸せになりますから!!

ある意味

私がパパさんと結婚を決めたのは

この言葉が全てだった気がします

今までずっと苦労続きだった先輩

大切な母が大きな病気になり

今のほうがもっと大変なはずの先輩

こんな時に人の幸せを思える

先輩ってすごいな

って


だから大丈夫❗️この人といれば

私を必ず幸せにしてくれる

苦労してきたことを忘れるくらい

私がこの人をこれからたくさん

幸せにしてあげたいと

思いました


そこからお付き合いが始まるのですが

付き合っている頃から

うちの両親は反対も反対‼️

最後は継母に泣かれる始末

今まで親の言いなりだった私

自分でも驚くくらい

全てが強行突破でした

でも当時の私には迷いは

全くなかったのです

逆にこの人逃したら

後悔するとさえ思いました


全く根拠などはなかったけれど笑

ホント若気の至りですよね~笑い泣き

 

結婚18年が過ぎようとしています

幸せなことばかりでは

決してありませんでしたし

正直

お互いに

離婚しよう

と思ったことは何度か?

私は何度もありましたー!!

しょっちゅうです!

喉元過ぎれば熱さを忘れる

じゃないですけどクヨクヨ

考えていても疲れるだけ

何より親の身勝手で子どもたちの

笑顔をなくすことは

お互いにできなかった

そこの共通点だけ一致していて

何とか18年


こうして文章にすることで

当時の気持ちや今の気持ちを比較して

冷静になれたり振り返りって

初心に戻ることが必要だった

私です


世界中がコロナに

翻弄された3年前


サラリーマンから

自営業になった我が家は

ようやく起動に乗ってきたか?

という時でした

仕事はことごとくストップし

資金繰りに目処が立たない状況に

落ち入りました

パパさんはもちろん私も必死でした


そんな中パパさんは

1人悩み苦しみ何とか仕事を回そうと

頑張っていました

長女ちゃんの

私立中学入学が決まっていたから

過労と持病が悪化し緊急搬送

されますがコロナで対応できず

救急車で長い時間待機して

病院を探してもらいました

あと少し遅かったら

亡くなっていたらしくそのまま

生死の淵を彷徨うわけですが

ここぞという時に

夫婦で連携が取れていなかった

のです

全てはパパさんの独りよがりと

私のキャパの無さから出ていた

態度が悪循環を招いていた

夫婦関係は過去にないくらい

最悪も最悪でした


パパさんを追い詰めていた私

子どもたちにも

必要以上に迷惑も心配かけてしまった


救急救命に運ばれて

オムツを履かされ

管だらけになったパパさんに

シート越しに会った時

意識朦朧の

パパさんは

医師・看護師がたくさんいる前で

思いっきり私を罵倒した

パパさんの意識はなくなった


医師には

非常に危ない状態です

今夜急変するかもしれません

と告げられた


そこからどうやって帰ったかも

覚えていない


何も考えたくなかったし

考えられなくなった

でも静かに子どもたちがずっと

側にいてくれた

温かい手を感じた時すぐに

私は我に返った

今が私の頑張りどき‼️

明日は学校行かせないと


妹(義妹)がすぐにきてくれて

手伝ってくれた

この人には本当に感謝しかない


長男くん3歳・長女ちゃんが

産まれたばかりの頃

パパさんがリストラになって

失業した時より大変だった

本当に本当に

とてつもなく大変な時期でした


でも私は今まで生きてきた中で

いつもピンチの時に

自分に言い聞かせている言葉がある


明けない夜はない

止まない雨はない

必ず太陽は顔を出す

夜があって雨が降るから

植物も人間も成長する


人生と同じ

生きてさえいれば

元気でいてくれさえすれば

それでいい

小さな幸せから

自然と笑顔は生まれてくる

その笑顔を見るための

努力だと思って

今、目の前に立ちはだかる壁から

絶対に逃げない❗️諦めない‼️


パパさんが奇跡的に

生還して帰ってきたあの日

家族揃ってから私から改めて

伝えた

一緒にまたやり直そうよ

だから元気に生きてください

私達のために


パパさんは意識が戻って

元気になった時に

救急救命での一コマのこと

看護師さんに相当怒られたそうです

あれはひどい


それからちょこちょこ

私の復讐劇がはじまります笑

唐揚げをみんなより1個少なくとか!

可愛いもんですニヒヒ

無意識かもだけど

無意識だから潜在意識だよね?

常に思っているわけだから

余計腹が立つ‼️

大衆の面前であんなこと言われたら

いくらなんでも許せないから💢

パパさん覚えておけよー真顔