【閲覧注意】3うちのパパさん | オリーブママのぶきっちょ子育て成長記

【閲覧注意】3うちのパパさん

オリーブママと申しますウインク

お読みいただき

ありがとうございますドキドキ

主人  54歳   

私   48歳  
長男  高3          
長女  中3          
Bくん 10歳  

大切な家族と
子育てが中心のブログになります
音譜

いいね👍ありがとうございます

 

注:このページは前回からのつづきと

なります

親から受けた

パワハラやDVの内容となります

また今回は乳がん内容にもなります

読みたくない方はここでページを

閉じてください

 

 

 

 

 

こんばんは♪

前回からの続きです

 

 『【閲覧注意】2うちのパパさん』オリーブママと申しますお読みいただきありがとうございます主人  54歳   私   48歳  長男  高3          長女  中3         …リンクameblo.jp

 

 

 

妹は大学を卒業後

航空会社に勤務します

小さなころからの夢だったCAですが身長が足りず

諦めることになります

でも飛行機が大好きで空港勤務をしました

 

母はパートを3つ掛け持ちして

働き続けます

家計がようやく落ち着くと

パート仲間と演歌歌手のコンサート

や温泉バスツアーへ行ったり

できるくらいまでになりました

休みを合わせて

母・妹・パパさんで温泉に行ったり

焼き肉を食べに行ったり

父なしの家族3人

たくさんいろいろな所へ行った

という思い出話を

今も度々兄妹で語っています

 

呑んだくれのどうしようもない

父ですがお酒とギャンブルの資金

のため仕事には行っていた

(借金はしなかったそうです)

足りなくなると母に暴力を振るい

母のパート代を奪って行くことも

ありました

兄妹が留守中

母には父から避難することを

勧めていました

でも母は家からは出なかった

パパさんは自室に鍵を取り付け

母が逃げられる

場所を作ったそうです

 

パパさんも妹も仕事が忙しくなると

深夜まで残業があったりします

そんな日はここぞとばかり

父の暴力は母に集中します

父は仕事で1~2週間

留守にすることがありました

帰ってくると上機嫌で母に

大量にお土産を買ってきたり

外に食事に連れて行ってくれる

こともあったそうです

 

パパさん曰く

最後まで離婚しなかったのは

やっぱり親父に惚れていたから

なんだよな

 

 

パパさんの家庭内は

そんな状態でしたが

仕事に対しては特にストイックに

真面目に黙々と働き続けます

私と知り合った頃(34歳)すでに

次期店長のお話がありました

前任の店長さんが地方へ新規店舗出店

のため赴任することになり

後任でパパさんが

店長昇格になりました

 

それから間もなくして

母が炎症性乳がんであることが

わかるのです

妹から

母のおっぱいがおかしい

と言われ一緒に見てみると

乳房がみかんの皮状にただれていて

カチコチに硬くなっていました

すぐに病院へ連れて行くと

大きい病院を紹介されました

すでに手術はできない状態でした

何でこんなになるまで放っておいた?

母は

いつ死んでもいい

と言ったそうです

最初に紹介された大きい病院では

検査もしないで母の乳房を診ただけで

すぐに余命宣告をしたそうです

結局うちでは対応できない

と言われてしまいました

パパさんは必死に病院を探しますが

話さえ聞くことも

受け入れもしてもらえず

対応拒否

炎症性乳がんは乳がんの中でも

厄介な病気で当時はまだ

非常に難しい病気でした

何軒目かでようやく診ていただける

病院が見つかりました

そこではパパさんの話を最後まで

聞いてくれ

いい息子さんですね

お母さん大変な治療になりますけど

一緒に頑張りましょう

と言ってくださった先生でした

パパは人生で初めて人前で声を出して

泣いてしまったそうです

どこへ行っても手の施しようがない

と言われていました

やはり手術は難しく

抗がん剤と放射線で

ガンを小さくしていく

ことを勧められ治療が始まりました

一縷の望みをかけて

母はその時58歳でした

 

 

母が入院して数日後

父から

「母はどこいった」

と言われ

この時ほど激昂したことは

なかったそうです

父には後日全て話したそうです

 

パパさん・妹で母の入院中の

サポートや家事をやることになります

会社に出勤してくるパパさんは

常に疲労困憊でした

私は当時、中途採用で入社したてでした

 

ガンマナイフに

(当時では放射線治療の先駆け)

よる治療でガンは少しづつですが

小さくなっていったようです

パパさんは病院探しの時から

図書館で片っ端から

ガン治療最先端の本を借り

勉強をしました

抗がん剤の副作用はひどくて

見ていられなかったくらい

辛そうだった

母は

「もう治療をやめたい」

といったそうです

副作用を少しでも和らげる

方法はないかと来る日も来る日も

情報収集します

 

そこであるお医者さまに

話を聞いてもらいにいったそうです

副作用緩和に関しては

個体差があるため

責任は持てない

と言われたそうですが

パパさんの熱意に押され何とか

見ていただけることになりました

もちろん主治医の先生にも

了承を得ました

パパさんも妹も仕事があるため

通院で治療をすることが難しく

家庭の事情を考慮してくださり

特別に入院させてもらうことが

できました

抗がん剤治療⇒放射線

⇒副作用緩和の繰り返し

母の治療の既定クールが終わり

副作用も落ち着きを見せ退院をします

家に戻ってきた母に父は手をあげることは

なかったそうです

抗がん剤の副作用で

ツルツルになった頭に

ニット帽やカツラを購入し

ス-パ-銭湯へ行ったり

お寿司を食べに行ったり

本当に病人かと思うくらい

以前のように元気な

母と楽しく過ごした時期

だったそうです


しばらく元気で過ごせる

日々が続き日常に

落ち着きが戻りました

治療を始めて半年くらいでしょうか

母はトイレが間に合わなくなりました

脳転移でした

まだ若い故

進行が早く抗がん剤治療も

できなくなりました

自宅で介助ができないため入院します

 

元気に入院仲間と談話をしている母と

私は初対面しました

今合わせておかないと

パパさんは思ったそうです

母には内緒でした

パパの姿を見ると

とてもうれしそうに微笑む母

後ろにいる私を見るとかなり

驚いているように見えました

当たり前ですよね

初めて見る母は顔が

パンパンに浮腫んでいましたが

それが笑顔のようで

にこやかな表情に見えました

何かを察したのでしょうか

パパさんが飲み物を買いに

行ったときに

2人になるとギュっと

手を強く握られました

特別な会話はありませんでした

今思えばパパさんを頼むねってことだったのかな

そこから間もなく母は危篤になります

 

つづく

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会社では毎年

店舗ごとに掲げられた目標

(いわゆるノルマ達成数値)

が達成できると

特別報酬が店舗に支給され

社員に分けられます

会社の利益を1番に出せる店舗の店長

毎年(その会社に勤務して約7年間表彰式の壇上に上がる人のは

後にも先にもパパさんだけなようです

 

そこから不動産業界で約30年弱

働きました

私達は同じ会社で知り合い

結婚となります

 

私と付き合い始めた頃

夜になると頻繁に

母から

父さんが暴れてるから

すぐ帰ってきて‼️

と泣きながら電話がきて

すぐに帰ってしまうこともありました

冷静に考えると私もよくそんな

家庭環境の人と結婚しようと思っていたのか

本当に不思議です

何度私たちのデートが邪魔されたか

わかりません

ただ母はこの時

乳がん(希少性乳がん)を患っていて

パパさんと妹で交代に家事と

看病をしていたのです

入退院を繰り返してもいましたから

私は何も言えませんでした

それなのにそんな母に手を上げる父

パパさんは

絶対に許さない

と言っていました

付き合って1年くらいの時

母が危篤になりました

私は母がまだ比較的元気な頃に

お会いしてご挨拶をしていました

パパさんに一緒に来てくれと

病院へ連れられ

病床で呼吸が荒くなる母を見ました

その時に初めて父と会いました

話で聞くよりだいぶ小柄な父は

職人らしく浅黒い肌で

隅っこに座っていました

暴力を振るっている姿を見たことは

ありませんでしたが

遠くを見つめて小刻みに震えている

ようで何とも寂しげだったのを

覚えています

3/3お雛様の日に日付が変わった時

母は旅立ちました

パパさんは

自分の責任はこれで終わった

と言いました

 

 

で払い終わらせたのです 

ですからこの3人の絆は

想像以上に深く

妹との信頼関係も絶対的なもの

になります

 

付き合う前は私達は

同じ会社の社員でした

残業で残ると夕飯をご馳走してくれたり

本当にいい先輩でした

不動産の営業マンは

結構チャラチャラした人が多いなと

思う中

店に来る職人さんから出る話でわかる

彼の信頼度と人格と人柄は

悪く言う人はいなかったのです

逆に休みの日でも嫌な顔しないで

現場へ出てきてくれる誠実者

私が彼氏と喧嘩した話をすると

アドバイスもたくさんくれて

彼氏と別れた時は

やけ酒だ!って

飲みにも連れて行ってくれました

 

仕事の出先では

色々自分の話をしてくれました

パパさんは会社ではプライベートが

謎の人と言われていたくらい

あまり自分の話をする人ではなかったので

意外でした

パパさんの母が乳がんを

患っていてもしかしたら長くないかも

しれないこと

自分が父親から受けた暴力のこと

幼少期からの家庭環境

全て包み隠すことなく

話をしてくれました

私は私で隠すことなどないので

自分の生い立ちを話ました

大変だな〜〇〇先輩

そんな風にしか思わなかった

ある時仕事を教わるために

外に出かけたことがありました

何も前触れなくふとパパさんは

私に言いました

〇〇ちゃんには

幸せになってもらいたいな

 

大丈夫です‼️

私は絶対に幸せになりますから‼️

ある意味

私がパパさんと結婚を決めたのは

この言葉が全てだった気がします

今まで

いや今も大切な母が大変な時に

人の幸せを思える人ってすごいな

って

だから大丈夫❗️この人といれば

私を幸せにしてくれる

私がこの人をこれからたくさん

幸せにしてあげたいと

思いました