【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月6日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

現地を見るとわかるように、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問を呈したのが前回(その1)までだったので、今回はその続きとなる。

 

この疑問を解決するには、やはりその当時の地図にあたるのがいいだろう。地図の定番と言えば、国土地理院(戦前は陸地測量部)のものとなるが、1万分の1地形図では駅の形が四角形(長方形)で表記されることがほとんどで、どちらに改札があるのかとか本屋があるとか等、駅の構造まではわからないことが多い。今回は示さないが、桐ヶ谷駅についても同様で北側か南側かはわからなかった。そこで、既存の文献をあたってみたところ、これも以前に取り上げたことのある「回想の東京急行 I」(著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)に「桐ヶ谷駅」の平面図が掲載されていることが確認できた。この原本(マイクロフィルム)は東京都公文書館にあるとのことなので確認すると、以下のようなものであった。

 

 

「回想の東京急行 I」に掲載されているものと同じだが、よりきれいにとれているはずである。上図では、北が右側で南が左側となっている。赤丸で示したように、駅ホームからのアプローチは北側でも南側でもなく、駅ホーム北寄りの東側に側道を設け、東側から出られるようになっていることがわかる。この図面は、開業前に池上電気鉄道が当局に提出した図面であるので、まったく寸分違わず同じではないものの、開業時(1928年(昭和2年)8月28日)はほぼこのような駅構造となっていたと思われる。では、南側橋上駅舎はどこにあるのだろう。無論、この図面からはそのようなものは存在しているようには見えない。

 

では、再び地図に戻ってみよう。

 

 

この地図は、1930年(昭和5年)3月15日発行の「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」(縮尺6千分の1)の一部で桐ヶ谷駅周辺(左から「やがりき」とあるのが右から読んで「きりがや」となる)を切り出してみたが、明らかに開業前の図面とは異なっているように見える。地図上では、駅南側(地図上では右斜め下)に出っ張りが書かれていて、接道する箇所もやや太い道路になっているような感じで、これこそ南側の橋上駅舎からのアプローチといった印象だ。しかし、まだまだ6千分の1の地図でもはっきりしない。決定的なものはといえば、今日ある住宅地図のようなものであるが、戦前の時期にそれに類するものといえば、いわゆる火災保険地図だろう。早速あたってみることにした。

 

 

いわゆる火災保険地図は、散逸してしまっている地域が多いが、今回は運がよく当該地域のものを発見することができた。またまた方位がずれてしまっているが、この図は上が北側で下が南側となる。おわかりのように駅ホームから南側にアプローチがなされ、南側に駅舎らしきものが確認できる(図中の「桐ヶ谷駅」とある箇所)。基本的な構造は「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」に表記されている内容と同じだろう。ただ、これを橋上駅舎と呼べるかと言えば、そうは言えないように思う。どう見ても、駅舎は空中構造物ではなく、法面のさらに道路側に置かれているからである。

 

ここでまたまた疑問符が付く。道路という公共用地上に私物の駅舎をつくってもいいのか? というものだが、この回答は先に示した「桐ヶ谷停留場之図」に見えている。

 

 

この図では水色を付けておいたが、要はこの水色で囲んだ部分が池上電気鉄道の敷地なのである。東側(上図では下側)の道路は、実は道路は道路でも公道ではなく私道であり、駅を出てから北側踏切側道路及び南側道路へのアプローチ道路だったのである。これは現在においても変わっておらず、今でも私道だと示す看板が掲出されている。

 

 

上写真は南側跨線橋より当該私道方面を撮ったものだが、ご覧のように何かの道路標識のようなものを再利用した「私道」という看板が確認できる。現地を確認するとわかるが、この池上線脇の道路が一見して私道とは通常思えない。道路幅員にしても道路条件(行き止まりでもなく、地域主要道路をつないでいる)からもそうなのだが、桐ヶ谷駅からのアプローチ道路だったとわかれば納得だ。往年の「たんけんぼくのまち」のチョーさん曰く「調べて納得、うんそうか」でおもしろ地図に書き込みたくなる、というものであろう。

 

さて、この辺で一度整理してみよう。

まず、北側と南側に改札があったのか、という疑問に対しては、どちらも証拠となりそうなものを確認できた。北側説は、開業前の当局に提出した図面「桐ヶ谷停留場之図」で確認できたが、北側ではあるが踏切からはやや離れており、どちらかといえば東側という方が適切であろう。理由は、東側から出て私道を経由し、北側にも南側にも行くことが可能だからである。

 

もう一つの南側説は、二つの地図「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」と当該地域の火災保険地図から確認できた。地図は、例外はあるものの、通常はそこにあったものが記載されることから、南側に改札があったことは疑いようがない。ただし、橋上駅舎だったかどうかまでは何とも言えない、となるだろうか。

 

このあたりで、その3に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

桐ヶ谷駅(現 東京都品川区大崎四丁目13番内に所在していた)は、東急池上線(五反田駅~蒲田駅)の大崎広小路駅~戸越銀座駅間にかつてあった駅だが、それほど大した駅でもないのに鉄道史において名前が登場するのは、当時の池上電気鉄道が部分開業を繰り返していた際、「1927年(昭和2年)8月28日、池上電気鉄道が雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間を部分開業」という事実があったからである。仮に部分開業が「雪ヶ谷駅~大崎広小路駅間」であったなら、それこそ存在そのものが埋没してしまうような小さな駅だったに相違ない。しかし、池上線の部分開業の終端が桐ヶ谷駅だったことで、この駅の存在は廃止後も歴史の中に名を残すことになったと言えるだろう。

 

そんな桐ヶ谷駅だが、これまで当Blogで取り上げたことがある「慶大グラウンド前駅か? 慶大グランド前駅か?」や「いつから雪ヶ谷大塚駅に改名したのか?」というものと同様、これも東急池上線の駅についてである。なぜ、池上線関連を多く取り上げるのか。この理由をこれまでほとんどふれてこなかったので、簡単に書いておこう。一言で言えば、東急池上線の歴史とは「勝者(= 目黒蒲田電鉄 → 東京横浜電鉄 → 東京急行電鉄)によって書かれた歴史」であり、自社路線と比べて確度の低い情報が提供されているからにほかならない。

 

地域歴史研究において、各種文献を調査するのはもちろんだが、私も含めて多くの方々が参照する原典となるのは「社史」のような自身によって書かれたものだろう。だが、多くの場合、本当に自身の歴史であればそれこそ「体験」として書くこともできようが、例えば婿養子であるとか嫁のように、生まれた当初から歴史を「体験」していない人たちの歴史は、聞き取りになったり、想像でしか書きようがなかったり、あるいは都合の悪い事実は消し去られたり(これは自身であっても起こることだが)、等々、様々な要因によって不正確に伝わるものも少なくない。

 

東急池上線は東急電鉄の歴史において、現存する路線の中では東急池上線と東急世田谷線の2路線が、他社を合併したことによって得た路線である。特に東急池上線は、目黒蒲田電鉄(先にも書いたが東急電鉄の前身)とのライバル関係だった池上電気鉄道を買収合併した歴史があり、東急各線の中でも不遇な扱いを受けることが多い(と外部からは見える)。池上線の歴史記述の薄さは、池上電気鉄道を合併して10年経たずして刊行された社史「東京横浜電鉄沿革史」からもわかる。いかんせん、それから30年以上を経た「東急50年史」内の池上線に関する記述よりも内容が少ないのだから。(好意的に解釈すれば、合併してまだ10年も経ていないものを歴史として記述しにくい、という理由もあるだろう。しかし、この時点で記述に正確性を期しておけば、のちの社史「東急50年史」にあれだけの不正確さを継承することもなかったはずだ。)

 

とまぁ、そんなわけで敗者である池上電気鉄道を出自とする東急池上線は、私にとって気になる存在であり、地域歴史研究の題材としてもなかなかに面白いのではないか、というわけである。

 

では、桐ヶ谷駅のプロフィールを簡潔に記しておこう。

 

桐ヶ谷(きりがや)

  • 1927年(昭和2年)8月28日開業
  • 1945年(昭和20年)7月25日休止
  • 1953年(昭和28年)8月11日廃止

以上の部分については、おそらく争いはないと思われる。駅が休止となったのは1945年(昭和20年)5月25日、このあたり一帯が空襲を受けた際に罹災したのが原因で、戦後も休止状態が継続し、復活を果たすことなく事務レベルで約8年後に廃止となった。復活できなかったのは、大崎広小路駅~戸越銀座駅間1.1kmと駅間隔が短かったことに加え、最寄りの商店街が発展していなかったことが大きいだろう。他に東急電鉄において、戦時中に罹災して休止後廃止となった駅は路面電車である玉川線及び戦後独立した小田急、京王、京急、相鉄の各路線を除くと、東横線の並木橋駅、新太田町駅及び神奈川駅、目蒲線(現多摩川線)の道塚駅があるが、いずれも復活を果たせていない(新太田町は臨時駅として一時復活)。よって、池上線だからという理由からではない。

 

さて、それでは本論に入ろう。桐ヶ谷駅の何が問題なのか。それは、またしても「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の記述についてである。本書111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載を一部引用すると、

「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」

とある。これは本文中に問題記述があるというよりも、単純に内容についての疑問である。それは、駅ホームの両端に改札を設けるのか? というものである。本文中には改札についてまったくふれていないが、本屋(「ほんや」ではなく「ほんおく」と読む)があるということは当然ここに駅員を配置し、本屋側に乗降客を誘導、つまりは改札があることを意味する(駅員配置に余裕があれば別だが、そんなはずはない)。無論、もう一方の橋上駅舎も同様に改札があることを意味するので、北(踏切)側と南(橋上駅舎)側の両方にあるように書かれているのだ。だが、現在の池上線の駅もすべてそうなっているが、ホームの両端に改札がある駅は一つとしてない(旗の台駅は戦後に乗換え駅として新造されたので例外)。これは単に営業コストを減らすのに都合がいいだけでなく、乗降客の安全管理等にも有効だからである。もちろん、電車編成数の少ない路線であれば、改札が一つにまとまっていた方がいい(今でも3両編成だが、戦前はさらに短かった)。もちろん、両側に改札があってもそれはそれで例外的なものであるし、本屋を設けた場所が改札から離れていたとしても、それ相応の理由があるはずだ。それを追求することを本稿の目標としよう。

 

 

現地を見るとわかるように(上写真手前が北側で奥が南側)、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問も出てくる。

 

と疑問を呈したところで、次回に続くとしよう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。この記事、前Blogでは結構引用いただいたものが多かったので、早く再掲したいものの一つでしたが、埋もれていました…。】

 

「蛇窪」という地名が、かつて東京都品川区にあった。今でもわずかに歯科医院等にその名をとどめているが、いわゆる公式地名としては既に消滅している。この「蛇窪」は、東京府荏原郡荏原町(その前は平塚町、さらに前は平塚村)に所属する大字で、上下をそれぞれ冠して「上蛇窪」と「下蛇窪」があった。平塚村が成立する前は、それぞれが単独村として存在しており、古い歴史を有する地名である。

 

©国土地理院

 

「蛇窪」の由来は、歴史の古い地名ではよくあるように、由来そのものははっきりしない。だが、「蛇窪」は地域を流れる河川に由来するのはほぼ確実と思われる。今は川が流れる様子を地上から見ることはできないが、河川改修以前の当地域を流れる川は、蛇行著しい水路だった。

 

と、地名の由来については置いておいて、長い歴史を有する「蛇窪」という地名に危機が訪れたのは、当地が平塚耕地整理組合によって区画整理がなされ、住宅地として大きく発展する時期と機を同じくする。昭和7年(1932年)5月、当地域が東京市に編入されるという議論が沸騰している最中、上蛇窪地域選出の町会議員、岩淵喜宗治は以下の建議書を提出した。

(参考資料「最近荏原町政史 全」鏡省三 著。204~206ページ)

 

建議書

荏原町大字『上蛇窪』『下蛇窪』ト公称セル字名称ヲ改称セントス

 

理由

町村内ニ従来公称セル字名ハ往古ヨリ伝来ノモノ甚タ多ク土地訴訟ノ審判歴史ノ考証地誌ノ編纂等ニ要用ナルヲ以テ容易ニ改称スヘカラサルハ大正五年内務省訓令ニ依リ明白ナル処ナルモ然共世運ノ進展亦其地方ノ実情ニ鑑ミ其ノ不適当ト認識セラルルニ至リタル場合ハ之カ適当トスル名称ニ改称変更スヘキモノニシテ之亦己ヲ得サルモノト云ハサルヘカラス

 

顧ミルニ当町大字上蛇窪下蛇窪ト公称セル字名ハ古来相当ノ由緒ノ存スヘキハ言を俟タサル所ナルモ今ヤ数万ノ人口ヲ包容シ全ク都市ノ形態ニ化シ商業発展ノ中核地域トナリ将亦住宅地域トシテ現在及将来益々発展ノ気運ヲ醸成シツツアリ由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス

 

如上蛇ノ一文字ヲ排セス或ハ上町下町ト称スルモ将亦上窪町下窪町ト云フモ可ナリ今ヤ此ノ地方モ大東京ニ編入セラレントシ将来一層ノ都市文化発展ノ期待スヘキ時機ニ際会シタルヲ以テ此ノ機ヲ逸セス最モ適当ナル字名ノ改称スヘキモノナリ

 

右理由ニ依リ町当局ハ速ニ本案ヲ会議ニ附シ委員ヲ設ケ精査研究ヲ逐ケ改称ノ実現ヲ計ラルヘキモノトス

右建議候也

 

昭和七年五月十六日

荏原町会議員

 提案者 岩淵喜宗治

 賛成者 沖要

 同   小林寛一

 同   平賀亮治

本文部分を一部、読みやすくしたものを以下に掲げる。

町村内に従来公称せる字名は、往古より伝来のものはなはだ多く、土地訴訟の審判歴史の考証、地誌の編纂等に要用なるを以て、容易に改称すべからざるは大正五年内務省訓令に依り、明白なる処なるも、しかずとも世運の進展、またその地方の実情に鑑み、その不適当と認識せらるるに至りたる場合は、これが適当とする名称に改称変更すべきものにして、これまた己を得ざるものといわざるべからず。

 

顧みるに、当町大字上蛇窪、下蛇窪と公称せる字名は、古来相当の由緒の存すべきは言を俟たざる所なるも、今や数万の人口を包容し、全く都市の形態に化し、商業発展の中核地域となり将また住宅地域として現在及び将来益々発展の気運を醸成しつつあり、由来我が国民性の蛇を嫌忌する感情よりするもまたこの都市文化の中心たる地名に蛇窪なる名称は、あたかも山村辺輙の地名の如く到底不適当たるを免れず。

 

ごとし上蛇の一文字を排せず、或は上町下町と称するも将また上窪町、下窪町というも可なり、今やこの地方も大東京に編入せられんとし将来一層の都市文化発展の期待すべき時機に際会したるを以て、この機を逸せず最も適当なる字名の改称すべきものなり。

 

右理由に依り、町当局は速に本案を会議に附し、委員を設け精査研究を逐げ、改称の実現を計らるべきものとす。

カタカナをひらがなに、一部漢字もひらがなにすれば、語体を変えずとも読みやすくなるだろう。要するに建議書では、地名は歴史や由緒あるものであり、簡単に変えるべきものではないが、蛇窪のような都市に相応しくない地名、また蛇を嫌う国民性から地名に不適当であり、せっかく東京市に編入されるのだから、改名する機会を逃してはならない。との主張に読める。

 

この建議案は、昭和7年(1932年)7月10日の町議会に附議し、委員を決定。その後の調査研究の結果、上蛇窪を上神明町に下蛇窪を下神明町と改称することに決定。9月7日の町議会で決定し、10月1日より実施としたのである。

 

これにより、蛇窪は神明に置き換えられることになったわけだが、当初の建議書においては「神明」という名は見えていない。そこにあるのは、「上町・下町」「上窪町・下窪町」というものであって、単に「蛇」というキィワードを外したに過ぎない。これが神明となったのは、神明社より由来するとなるが、この名を採用した理由は人為的なものである。見栄えのいい、聞こえのいい、通りのいい、という理由でしかないのだ。

 

東京府荏原郡荏原町大字上蛇窪は、昭和7年(1932年)10月1日より、東京府東京市荏原区上神明町となった。しかし、せっかく命名した町名もわずか10年足らずで消滅してしまう。荏原区は、人口稠密地帯であり、単独町で一つの区を成立させたが、町名は多くの他区とは異なり、大字区域をそのまま町区域としたため、地番だけで家屋を特定することが困難だった。そのため、東京市からの強力な指導を受け、町名整理に踏み切った。同時に自治会(町会)区域も見直され、原則、「一町=一町会」となった。この新町名は、現在にも残る豊町、二葉町(現 二葉)だが、「蛇窪」や「神明」のような由来を持たない名前でしかなかった。幸いにして、東急大井町線に「下神明」駅が残っているので、東京市荏原区発足時の町名は保存されているが(「下神明」駅の前は「戸越」駅だった。現在の「戸越公園」駅の前が「蛇窪」駅)、これがなければきわめて短期間で消滅したとなるだろう。

 

以上、蛇窪という地名がどういう経緯で消滅に至り、それを受けた神明も10年足らずで消滅したことを振り返ってみた。所詮は、どれだけの人たちが土地の記憶を共有できるかで、地名の存続は決まってくる。蛇窪の場合は、その名もさることながら、それ以上に都市化以前の状況と都市化が進んだ後での住民の気質が違ったこと。さらには戦時体制に向かって町名改正がなされたが、結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう。「この土地は誰のもの?」みたいに、時代をどこまで遡れるのか、によって決まる話(中東では2000年以上もやりあっている)。地名の保存とは、とどのつまりそういうことだと思うのだ。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年8月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(「同潤会 荏原普通住宅地」)の続きです。というか、おまけです。

前回は、現地の写真を掲載していなかったので、リアル感不足かなと思い、今回一部であるが追加する。

 

 

どことはいちいち特定しない(以下同じ)が、微妙な道の曲がり具合からどのあたりか地図を確認すれば見当がつくだろう。この道が私道なのか、あるいは単なる通路(建築基準法にいう道路ではない)なのか、あるいは公道なのか。道幅は2メートルより狭く、当時尺貫法であったことを思い起こせば、1間(約1.8メートル)ほどの幅かと思われる。

 

そして、同潤会住宅地の境界付近にあたるところの通路はさらに狭くなっており、1メートルあるかないか(半間ほどか?)である。広角レンズで撮影すれば、もう少しまともな写真が撮れるのだろうが、いかんせん持ち合わせていなかったので、どうしてもこのような写真となってしまう。とにかく、街路が狭いので撮影するのも一苦労する。

 

 

これは、狭い通路というか側溝というか、ここが同潤会住宅地の境界で写真右側が同潤会住宅地となる。大正期の分譲地は、下水道(側溝)を境界線に配置する傾向があるが、ここもそういった特長を持っているのである。

 

以上、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年8月2日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。残念ながら、本住宅地は建て替えられているので、本当の意味での過去記事となりました。】

 

航空写真(上空からの都市の写真)を眺めていると、周囲と異なる街区パターンが突然現れるところがあったりするが、多くの場合、それはそうなった理由があるはずである。今回取り上げるのは、東京都品川区中延二丁目3番付近。地図をご覧いただくとおわかりのように、概ね東西・南北に走る道路が主流の街区に、この部分だけ斜めの道路と建物自体も東西・南北軸とは傾いて建てられている。これを航空写真で見れば、よりはっきりこの街区のみが異なっていることが確認できる。

 

 

この一角(赤く示した部分)が、周囲の街区よりも特異というよりは、一つの街区の中に特異な区画を包括しているといっていいものだろう。多少でも建築基準法をご存じなら、このエリア内の建築物の多くが不法建築物(接道要件を満たしていない)ではないか?という疑問を持たれるだろうが、実際はともかくこのエリア内の特異性は、この航空写真だけで十分に確認できる。

 

周囲と異なるこのエリアは、いつからこうなっているのか。まずは、この点から確認してみよう。この周辺は、関東大震災前後に耕地整理(いわゆる区画整理)が成されており、道路パターンは概ね東西・南北に走り、多くが長方形の街区で構成されている。よって、大正後期から昭和初期の状況が把握できる同時代の地図をもって確認するのが適当である。

 

©国土地理院

 

これは、昭和4年(1929年)時の1万分の1地形図の当該部分を示したものだが、いきなり答えが出ているように(というか本記事のタイトルで既に明らかではあるのだが)「同潤会住宅」と明記されているとおり、ここは同潤会によって作られた住宅地だったのである。街区の中に特異なパターンが見られるのは、同潤会住宅地としての名残(残滓)ということだったのだ。

 

 

もう一つ同時期の地図として、東京府荏原郡荏原町(現 東京都品川区の一部)の地図(昭和4年時)を示そう。微妙に細部は異なるが、概ね1万分の1地形図と変わらない。注目は、同心円状の道路が左上の区画のみ見られないことだが、ここは当初は同潤会住宅地の予定であったものを荏原町の人口爆発的な増加によって、急遽、小学校建設の必要が生じ、ここが小学校建設用地(現 中延小学校)となったことで同心円状道路の一部が欠けることとなったのである。また、もう一つの注目は同潤会住宅地の中央を南北に貫く道路が、住宅地内の区間だけやや広くなっていることである。1万分の1地形図では明らかでないが、東京府荏原郡荏原町地図では誇張はされているものの、そういった表記となっているのが確認でき、実際、現在も道路の幅員の違いはそのままとなっている。こういう細かい部分が、地形図とはまた違った発見ができることから、単に地形図だけで昔を語りたくないのである。

 

さて、昭和4年(1929年)当時と現在の航空写真を比べて見ると、左下の区画以外、つまり右上と右下の区画には同心円状の道路がなくなっていることがわかる。ここにも歴史はある。

 

©国土地理院

 

ちょっと見にくいかもしれないが、これは昭和23年(1948年)当時の航空写真で、赤く示した部分が現在の同潤会住宅地として残された区画である。そう、昭和20年(1945年)の米軍機による空襲によってこの周辺も被害を受けたが、同潤会住宅地のうちこの区画のみが焼け残ったのである。右上、右下の区画は残念ながらほとんどを焼失(消失)し、戦後になって新たな区画によって建物等が建設されたが、わざわざ非効率な同潤会住宅地の同心円状街路を採用することはなかった。こうして、わずか一角のみに狭隘な道路と周囲の建物配置と異なる区画が誕生(というか残された)したのである。

 

それにしても、戦前の1万分の1地形図や戦後間もなくの航空写真から明らかなように、同潤会住宅そのものは建物間隔にそれなりの余裕を持って建てられているにもかかわらず、現状のそれは、建物間の空地にも無理矢理建物が建設されているようにも見える。このあたりの理由は推して知るべしかもしれないが、まぁ今回はこの辺で。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年6月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

当Blogでおよそ4か月前、「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か? 正しいと思われるものでも誤っている事例」という記事において、

私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。

と記したように、慶大グラウンド前駅が正しいのか、慶大グランド前駅が正しいのか、という宿題に対して、ようやく納得できる解を示すことができる。まずは、池上電気鉄道が発行した切符を見てみよう。

 

 

昭和7年(1932年)5月3日の日付が確認できるこの切符。五反田駅発行のもので「五反田 → 雪ヶ谷 慶大グラウンド前間」と確認できる。もっとも、切符右側には「慶大グランド前」ともあり、どちらが正しいんだ?と思わせるが、単に縦に7文字しか書けない故のものだろう。続いては、様々な文献にも紹介される沿線案内図。私もいくつか入手できたので以下に示すと、

 

 

昭和2年8月から昭和2年末に発行された「池上電気鉄道沿線名勝案内」(部分)には、「慶大グラウンド前」と書かれている(昭和2年発行とした根拠は、案内図裏面に「池上電車は蒲田を起点とし大崎広小路まで東京府荏原郡を半環状を画いて走る現営業線と池上大森間、大崎広小路五反田白金品川間の予定線とを有して居ります。来春までには五反田駅に於て省線と連絡し更に引続いて市内乗入線として白金猿町品川線の開通を見る筈です。」[すべて漢字等は現代のものとした]と記載があるため。太字は筆者注)。続いて、

 

 

昭和4年(1929年)頃に発行された「池上電鉄沿線案内」(部分)。これにもしっかりと「慶大グラウンド前」とある(池上から点線が出ているのは、荏原中延~池上徳持間3.7kmの免許路線 [1928年(昭和3年)11月5日免許] )。続いて決定版と言うべき、

 

 

改訂された「池上電鉄沿線案内」(部分)。何度も同じことを確認するが、やはり「慶大グラウンド前」となっている。この三点以外にも池上電鉄が発行した沿線案内図があるかもしれないが、少なくとも確認できたこの三点は、図はもとより裏面の解説でもすべてが「慶大グラウンド前」と記されているのである。

 

そして、池上電鉄が目黒蒲田電鉄に合併された後の沿線案内図では、いちいち示さないが「慶大グラウンド」と「前」が抜けてみたり、あるいは「慶大グランド前」と「ン」が抜け落ちてしまう。そのとどめが「東京横浜電鉄沿革史」に記載された千鳥町駅の由来に「慶大グランド前を改称」とされ、現時点での東急電鉄社史の決定版となっている「東急50年史」にも、それが引き継がれているわけである。

 

言うまでもなく、「東急50年史」は東急電鉄の歴史を調べる上で欠かすことのできない書籍であり、またこれを原典(典拠)としている文献も少なくない。いや、これを外すことなど考えられないだろう。だが、これに記載されているものがすべて正しいとは限らない。駅名の由来などはその最たるものだが、池上電気鉄道関連の記載もまたしかりである。当Blogでも、慶大グラウンド前駅の話題や雪ヶ谷大塚駅の話題で取り上げているように、明らかに「東急50年史」の記載に誤りがあり、これを元にした山ほどの文献による誤った記載が蔓延しているのが現状なのである。

 

これを正すには、やはり東急電鉄自身による新たな社史の登場が求められる。それに期待しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年2月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

Wikipedia内の記述が云々という話を先日取り上げたが、誤った情報が出るのは何もネットの世界だけではない。目新しいメディアであるが故、古いメディアから攻撃の対象になりやすいと言うだけで、実際には新聞や書籍などにも誤った情報はたくさんある。それが引用され、もっともらしいように語られているのは、歴史の長さから見ても圧倒的に新聞や書籍の方が多いだろう。

 

今回、その例として取り上げるのは、タイトルにも記したとおり「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か?」という問題である。はっきり言って、どっちでもいいではないかという話に聞こえるかもしれないが、これは固有名詞であり、しかも駅名だったこともあるなかなかに重みのある名前なのである。

 

グラウンドなのか、グランドなのか。これが固有名詞でなければ記載方法の違いであるので、筆者のポリシーでいいだろう。PC関連で言えば、コンピューターとコンピュータ、プロセサとプロセッサなどなど枚挙に暇がないが、固有名詞でなければどちらでもいいものだ。だが、固有名詞で表記が特定されているものであれば、たとえそれが筆者のポリシーがあってかつ異なるものだったとしても、表記を勝手に変えるのはいかがなものかとなる。

 

例えば、東急田園都市線の駅名に「たまプラーザ」というものがある。一般的には、PLAZAはプラザと表記することが多いが、だからといって「たまプラザ」とはしない。ローマ字表記等、異なる文字を使うのでなければ、「たまプラーザ」は「たまプラーザ」なのである。これと同じように、「慶大グラウンド前」か「慶大グランド前」なのか、というのはどちらでもいいというものではなく、どちらかが正しくどちらかが誤りなのである。

 

では、「慶大グラウンド前」または「慶大グランド前」(以降、面倒なので「慶大グラウンド前」と称し、必要に応じて「慶大グランド前」と使い分ける)とは何か。簡単に説明しよう。先に駅名だったと示したように、これは現 東急池上線の千鳥町駅の旧名である。東急池上線は、1934年(昭和9年)に東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄に合併される前までは、池上電気鉄道という会社が運営していた路線で、合併される直前の状態においては現在の東急池上線と、雪ヶ谷~新奥沢間のわずかな区間の路線(1936年廃止)を持っていた。現 千鳥町駅は、池上電気鉄道時代は「慶大グラウンド前」駅という名であり、目黒蒲田電鉄に合併されて一年ほど経過した後に、駅の場所を若干西側に移設して千鳥町駅と改名させられたのである。

 

一方、「慶大グラウンド前」駅の命名根拠となった慶大グラウンドはというと、慶應義塾が1924年(大正13年)に、東京府荏原郡調布村大字嶺字横須賀等(現 東京都大田区千鳥二丁目)の土地約14,000坪を購入して造成し、1926年(大正15年)から運動場(主に野球グラウンド)として開場した。これを受けて、池上電気鉄道が1926年(大正15年)8月6日に「慶大グラウンド前」駅を開業したという流れである。

 

この慶大グラウンド(新田球場)は、慶大野球部の本拠地となり、早慶戦など大学野球の公式戦も行われたため、営業成績の振るわなかった池上電気鉄道としては、格好のターゲットと映ったことだろう。だが、実際の最寄り駅はライバル目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅の方であった(「慶大グラウンド前」駅から約220メートル。武蔵新田駅からは約160メートル)。とはいえ、グラウンド敷地までではなく、あくまで野球部のクラブハウス的な建物までとするなら、「慶大グラウンド前」駅の方が近かった。

 

しかし、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に吸収合併され、先にふれたとおり「慶大グラウンド前」駅は、1939年(昭和14年)のグラウンド移転を待たずして、駅の位置をずらされた挙げ句(現 千鳥町駅付近)、駅名もその時点での町名である調布千鳥町から拝借して千鳥町駅となった。なお、原典となる文献があるからだと思うが、千鳥という地名はそれほど古くないという記載をよく見かけるが、これは誤りで、1932年(昭和7年)に調布千鳥町と命名された根拠は、この地の一部が東調布町大字嶺字千鳥窪(千鳥久保とも書く)だったことによる。しかも、この名はこの地域の小名であり、よって江戸期以前よりの古い地名でなのである。

 

横道に逸れた序でに、新たに千鳥町駅となった場所は、「慶大グラウンド前」駅が誕生するまでは、ほぼこの位置に光明寺駅があった。池上線が雪ヶ谷駅まで延長した1923年(大正12年)5月4日に開業した駅で、その名のごとく最寄りの光明寺への参詣客を目当てに設置された。だが、ほとんど利用客がなかったため、「慶大グラウンド」駅が開業する前に廃止となった。この「慶大グラウンド前」駅も開設して間もなく、駅の場所が都市計画道路に当たることが明らかとなったことから、西側に移転し、昭和初期の地図に見られる位置に移設した。そして、1936年(昭和11年)に千鳥町としてまた移設となったわけで、わずか12~3年ほどの間に駅名変更が2回、駅の場所が3回も移動した珍しい駅なのである。

(下の昭和4年時点の地図に示す、1が光明寺駅、2が初代慶大グラウンド前駅、3が二代目慶大グラウンド前駅、4が千鳥町駅。)

 

©国土地理院

 

長くなったが「慶大グラウンド前」駅とは、以上のような変遷を経た、なかなか興味深い駅なのである。この駅名が、「慶大グラウンド前」なのか「慶大グランド前」なのか。ようやく本論に入るが、なかなかどちらが正しいのか決定しにくいのである。以下に主な文献を列挙して、どちらを記載しているかを見てみよう。

  • 東京横浜電鉄沿革史や東急50年史など、東急公式資料はすべて「慶大グランド前」と表記されている。
  • 池上電気鉄道の切符(硬券)は「慶大グランド前」と表記されているらしい(現物を見ていないが、オークション等の情報を見る限り「慶大グランド前」として出品されているものが多い)。
  • 陸地測量部(現 国土地理院)の地図では「けいだいくらうんどまへ」(慶大グラウンド前)と表記されている。
  • 池上電気鉄道沿線案内図は「慶大グラウンド前」と表記されている。

典拠として、必要十分なものはこの4つでいいだろう。困ったことに、東急公式資料は「慶大グランド前」(おそらく最初である東京横浜電鉄沿革史の529ページには、千鳥町駅の記事として「昭和十一年一月一日(旧称)慶大グランド前を改む」とある)なのだが、元締めと言うべき池上電気鉄道の沿線案内は、対象の時期はすべて「慶大グラウンド前」となっている。国土地理院の前身である公式な地図もひらがな表記だが、「慶大グラウンド前」であり、本当にどちらが正しいのか、判断がつきかねる。ただ、傾向ははっきり掴めていて、鉄道ファン系の著者が書かれているものはほとんどすべてが「慶大グランド前」、一般向けの地図等では「慶大グラウンド前」となっている。この理由は、上に掲げた典拠から推測できるとおりだろう。

 

ただ、例外があって、昨年出版された「東急の駅 今昔・昭和の面影」(宮田道一 著、ジェイティビィパブリッシング)で、千鳥町駅のページに何の脈絡もなく唐突に「慶大グラウンド前」の注釈として、池上電気鉄道沿線案内ではこのように表記されている(おそらく自身の他著書では「慶大グランド前」としていたが、この著書では「慶大グラウンド前」としたと言いたいのだろう。ただ、この本しか見ていない読者は意味がわからず、置いてきぼりである)のような注釈をつけている。推測するに、鉄道ファン系の著者も「慶大グラウンド前」として認めつつあるのかもしれない。なぜなら、池上電気鉄道沿線案内のような資料は、ずっと昔(大正後期~昭和初期)からそこにあり、それを今頃になって発見したなどとは考えにくく、「慶大グランド前」説から転向したのではないかと思われるからである。

 

とはいいつつ、私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。

 

以上、大した話でもなく調べる価値がそれほどあるものなのか、と疑問はないわけではないが、一部の文献だけを頼るだけでは、わかっているつもりにしかならないことがわかるだろう。たかがこの程度の話でさえ、奥が深いものなのだ。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年6月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

3か月ほど前、「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事内において、東急池上線の雪が谷大塚駅の変遷について以下のように記述した。

 

明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。

 

これまでの定説とは、「回想の東京急行 I」にある次の記述である。

 

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150m蒲田寄りに移設した。当初、相対式ホームのみであったが、まもなく新奥沢支線用のホームが設置され、立派な分岐駅の体裁を成した。

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置だというが、地図で確認するとわかるように不自然な位置にある(後でまとめて示す)。本文にもあるが、設備の詳細は不明とあり、この場所は駅の痕跡すら残っていない。では、なぜこの場所が初代の雪ヶ谷駅だとしたのか? この疑問に対し「回想の東京急行 I」にはまったくふれられていないので答えようがないが、ついにこの説の典拠と思われる書籍を見つけた。「鉄道廃線跡を歩く VII」(宮脇俊三 著、JTB発行)である。この本の105~107ページには「池上電気鉄道新奥沢支線」が紹介されているが、ここに雪ヶ谷駅の変遷が地図に示されている。早速確認してみよう。

本文中には、

石川台1号踏切際にあった初代雪ヶ谷駅(A)は高圧鉄塔用地になって何も発見できないが、1号と2号踏切の中間より線路幅が広がり始める地点が新奥沢分岐点である(B)。続く3号踏切の進行右側空地が二代目雪ヶ谷駅本屋の位置であった。また、現・雪が谷大塚駅ホームの五反田寄りが二代目駅ホーム位置で(以下略。下に部分図で補完。なお、下地図にあるA地点は本文中にある石川台1号踏切付近ではなく、石川台2号踏切付近を指している。単にこれは誤植のようなものと思われる。)

 

とあり、初代雪ヶ谷駅の位置については「回想の東京急行 I」とほぼ同内容の記載となっている。これは「回想の東京急行I」の著者の一人 関田克孝氏が「鉄道廃線跡を歩く VII」中の「池上電気鉄道新奥沢支線」の著者でもあり、よって同内容で記載したと考えられる。加えて、両書とも2001年の初版発行であり、おそらく執筆時期も近いと思われる。つまり、両書に記載されている初代雪ヶ谷駅の位置の根拠は、どちらか一方で根拠を確認できれば、両方とも証明できるとなるわけである。下に「鉄道廃線跡を歩く VII」の107ページを縮小・圧縮して引用しているが、このページには3枚の地図が掲げられており、最も古いものは国分寺線第一期計画図で、ベースは3千分の1地図(おそらく大正14年のもの)。二番目に古いのは新奥沢線開通後の昭和初期の1万分の1地図。残るものがほぼ現代に近い1万分の1地図である。縮尺が異なるものがあるが、この3枚をできる限り同一縮尺かつ同地域となるよう工夫がされている。

 

 

だが、よく見てみると位置がずれているだけでなく、縮尺が合っていないことがわかる。特に国分寺線第一期計画図(右下の図)は、ベースが3千分の1だからなのか、他の1万分の1地図と位置がずれている上に明らかに他の2図と比較してやや縮尺が大きめになっている。このため、計画図(右下)に書かれている雪ヶ谷駅(終点)と最も新しい1/1万地形図「自由が丘」(左上)に追記されている雪ヶ谷(初代)駅とは、一見すると同じ位置のように錯覚してしまうが(特に左下の地形図とも見比べるとなおさら)、実は大きくずれているのである。にもかかわらず、右下端のほぼ同位置にあることをもって初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないかと推察されるわけである。

 

 

上図が国分寺線第一期計画図の右下端を拡大したものだが、この図の初代雪ヶ谷駅の位置と、アルファベット入りでほぼ現代の地形図に初代雪ヶ谷駅等を追記した図と比較すると、何となく同じ位置にあるような錯覚を覚える。「鉄道廃線跡を歩く VII」においても、初代雪ヶ谷駅をこの位置にした根拠は語られていないが、この3図を比較検討した上での関田氏の推測ではないかと私は考えた次第である(関田氏本人に伺うのが手っ取り早いが、何で誤ったのかとは聞きにくい)。

もう少し、錯覚を覚えるという部分を詳しく説明しよう。

 

 

 

このように両図を並べ、中原街道から初代雪ヶ谷駅の蒲田寄りに通る直線道路を赤線で示した。一見すると同じ道路のような錯覚を覚えるが、計画図にある直線道路は現在、存在していない。雪ヶ谷駅が開設した当初に一時的にあっただけで、周辺が耕地整理組合によって区画整理された時に消えてしまったのである。しかし、両図を並べてみるとわかるように、若干角度はずれているが同じ道路のように見え、ここから初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないだろうか。また、中原街道北西側(図では上側)の細い道路も同じだという先入観で見れば、何となく同じように見えてしまうような気もする。とはいえ、同じ道路でないことは、線路と中原街道との接近具合でも確認できる(拡幅はされたが曲がり具合はそのまま)。

 

ここで、最近見つけた新資料(私にとっての)を確認してみよう。

 

これは「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」とある池上電気鉄道が当局に提出した第三期線の計画図面である。第三期線とは、雪ヶ谷~五反田間(ただし、大崎広小路~五反田間は現在の路線とは異なり、再度申請・免許されている)を指し、言うまでもなく第二期線の雪ヶ谷駅までは既に開業していたため、この図における雪ヶ谷駅の位置は正しいものと考えられる。では、当該部分を拡大してみよう。

 

 

拡大してもわかりにくかったので、私の方で一部文字を追加した。「三期工事起点3マイル72チェーン地点」は、第二期工事までに施工完了したところで、雪ヶ谷駅終点からわずかに先となっている。そこから、中原街道に沿う形で第三期線の直線が引かれている。途中4マイル地点に◎が付いており、ここまでの距離は工事起点から8チェーン(= 4マイル ー 3マイル72チェーン。1マイル = 80チェーン)なので、メートル法に直せば約161メートル(1チェーン = 20.1168メートル)であり、さらに進むと斜めに道を横断、すぐにもう一本道を渡って崖地を越えるようになる。ちょうど上図の右端辺りに線が複数入っているが、ここが崖地であり、「4マイル地点」とある「点」の字の右にある道路が、いわゆる山裾道でこの道の右側にあたる部分が崖下となっている。工事起点から4マイル地点までの距離が約160メートル程度なので、4マイル地点から崖下に第三期線がかかるまでの距離はおよそ130メートル程度となる。合わせれば、工事起点から崖地にかかるまで約290メートルの距離があると計算できる。

 

さて、これを現代の地図にあてはめて、崖地(山裾道の北側)から約290メートル雪ヶ谷方向に戻ってみるとどのあたりになるのだろうか。そう、現在の雪が谷大塚駅のホームにあたる場所にまで戻ってしまうのである。また、この計画図に関田氏のいう初代雪ヶ谷駅をはめ込むと、4マイル地点よりも先に駅があったことになり、第二期工事までに開業した雪ヶ谷駅であるにもかかわらず、駅の場所は第三期工事区間に存在してしまうことになる。これは矛盾どころかあり得ないとなるのは、言を待たないだろう。

 

 

それでは、航空写真も参考にしながらまとめに入ろう。

「回想の東京急行 I」並びに「鉄道廃線跡を歩く VII」では、初代雪ヶ谷駅は石川台1号踏切際(蒲田寄り)にあったとしているが、これは当Blogの「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事で、古地図等を参照すると誤っているのではないかと指摘したが、今回はさらにそれを補強する根拠として、「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」に記載されている雪ヶ谷駅の位置や、第三期線の計画線を検討し、どう考えても石川台1号踏切近く(山裾道そば)に初代雪ヶ谷駅は存在しないと確認した。

 

そして、関田氏が石川台1号踏切近くを初代雪ヶ谷駅としたのは、「鉄道廃線跡を歩く VII」中の新奥沢支線の記事に掲載した、3枚の年代別比較地図から類推したのではないかと推測した。あのように並べてしまうと、確かに勘違いしてしまう可能性が生ずるのはやむを得ないが、街区パターンが現在とは異なっている場合、よく気をつけて確認しないとこのようなミスを犯しかねない。また、同じ縮尺の地形図であっても、初版が戦前のものと初版が戦後のもの(都市計画図を縮小編纂)とでは、測量方法等の違いから微妙なずれが生ずることも少なくない。

 

とはいえ、実はまったく別の典拠があって、初代雪ヶ谷駅を石川台1号踏切近くとした可能性もある。やっぱり著者に聞いてみるしかないのだろうな(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

そろそろ別の話題も、と考えていたが決定的な証拠を見つけたので、一気に完結編と題して書けるところまで書いてみようと思う。

これまでの議論を踏まえていくが、基本的に完結編を読めば済むように努める。が、必要に応じて過去記事も参照いただければ、という前提で進めたい。

 

まず、確認するのは3,000分の1地形図。別名都市計画図とも言われるだけあって、搭載されている情報は1万分の1地形図の比ではない。まずは、最も古い大正14年測図のものから示そう。

 

 

大正12年5月4日に雪ヶ谷駅まで開通している池上電気鉄道であることから、既に地図上には線路及び駅が記載されている。この図のポイントを列挙すれば、以下のとおりとなるだろう。

  • 雪ヶ谷駅は、荏原郡池上村(大字雪ヶ谷)と荏原郡調布村(大字鵜ノ木飛地)の境界付近に建設された。
  • 雪ヶ谷駅は、出口に側道を設けて中原街道側に接していた。
  • 雪ヶ谷駅は、池上電気鉄道では基本の相対式ホームだった。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)はまだこれからだが、駅南側の道路や駅南東側に見える荏原土地会社経営
  • 地附近には、新たに直線的な道路がつくられている。
  • 嶺変電所(地図中、池上電鉄嶺変電所)は見えるが、操車場等は見えない。

では、続いて昭和4年8月測図の地形図を見て、大正14年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。

 

 

雪ヶ谷駅が見えないが、これはちょうど地図の切れ目に位置し、この上部分(北側)にあると思われる。残念なことにこの上部分(北側)の同時代の地図を見つけることができないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、1万分の1の地図から補完するに、駅の位置はやや北側に移動した可能性が高い。

  • 池上電鉄奥沢線(いわゆる新奥沢線)が登場した。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)が進んでおり、駅南側の道路を含め、道路網が大きく変わっている。ただ、古い道路もいくつか残されている。
  • 嶺変電所の西側に調布大塚駅が新設された。
  • 調布大塚駅南側に車庫らしきものが新設された。

では、続いて昭和13年測図の地形図を見て、昭和4年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。

 

  • 雪ヶ谷駅が南側に移動した。
  • 昭和4年の雪ヶ谷駅の様子はわからないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、この時点では大正14年時の相対式ホームから島式ホームに変わった。同じく、大正14年時に見られた中原街道への側道もなくなっている。
  • 新奥沢線が跡形もなくなった。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)がほぼ完了し、中原街道の拡幅以外はほとんど現在と変わらない街区パターンとなった。
  • 嶺変電所の西側を通っていた線路が東側を通るようになり(変電所は移設?)、雪ヶ谷駅以南の線路の形状が東寄りに移り曲線が緩やかになった。
  • 調布大塚駅がなくなった。
  • 車庫の場所が北側の街区に移動し、跡地の一部は東調布警察署となった。

以上の流れを見ていくと、明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。この結果、中原街道と区画整理(耕地整理)された道路との接続方法も変わった。昭和13年時点の地形図から明らかなように、既にこの時点で現在の雪が谷大塚駅と基本的な構造が変わっていないことが確認できる。また、昭和22年時点の航空写真と比べてみても、ほとんど変わっていないことから、昭和18年に雪ヶ谷大塚と改名したタイミングで駅の位置をやや南に移動したという内容(「回想の東京急行 I」に記載有)も疑問符がつくものとなる。その後の大きな変更は、駅ビルの建設を別にすれば、かつての池上電気鉄道の車庫だった部分が、再びその役割を持つようになる以外にない。つまり、雪ヶ谷駅周辺の基本的構造はほぼ昭和13年の時点で完成したことを意味するのである。

 

以前に「東京横浜電鉄沿革史」で調査した曲線半径の変更工事や電車庫の新設等の情報を組み合わせると、雪ヶ谷駅及び周辺の変遷は以下のようになるだろう。

 

大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。中原街道に接続道を設置。

昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。

昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を五反田寄りに約100メートル程度移設。接続道路を中原街道から駅北側道路へ変更。

昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。御嶽山前が御嶽山に名称変更。

昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。

昭和10年10月14日 東調布警察署、旧池上電気鉄道の車庫跡地に開署。

昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。

昭和12年10月頃 雪ヶ谷~御嶽山間の曲線改良工事完了。雪ヶ谷駅も蒲田寄りに約150メートル移動、島式ホームとなり、接続道路も駅北側道路から駅南側道路へ変更。

昭和13年 雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築。

 

ここまでは、それなりに資料も豊富なので比較的推論を挟む余地はほとんどなかったが、問題はここからで、いかにして昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称したのかという肝心な部分の分析は、まだできていない。ただ、ほぼ確実なことは昭和8年6月1日において、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚への改称は行なわれていないということである。なぜなら、戦前に発行された各種文献、地図等を眺めれば、昭和18年より前のものはすべて「雪ヶ谷」表記のものばかりだからである。中でも重要なことは、同時代資料である「東京横浜電鉄沿革史」内ではすべて「雪ヶ谷」のみで、「雪ヶ谷大塚」とする箇所は一つもないことからも明らかと言えよう。

 

一方、雪ヶ谷大塚の初出はとなると、以前に紹介した昭和20年当時の池上線の写真は別にして、昭和21年発行の戦災被害図に「雪ヶ谷大塚」という表記が確認できる。つまり、どんなに遅くとも昭和21年時点においては「雪ヶ谷」ではなく「雪ヶ谷大塚」に改称されていた。このことも確実だとなる。

 

そして、ついに決定的な資料を見つけた。切符である。昭和11年12月14日付けのもので、しっかり「雪ヶ谷→石川台 長原間」とあり、これで確実に昭和8年6月1日改名説は消滅したと言っていい。

 

 

残るは、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改名した時期である。昭和18年説の根拠を私は知らないが、今まで調べてきた中から考えると、典拠は「東京横浜電鉄沿革史」にあるのではないかと考える。つまり、本書では昭和18年の時点においては「雪ヶ谷」のままであり、昭和20年の時点では「雪ヶ谷大塚」に変わっている。なお、前回ご紹介した「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真の一部を以下に示す。

 

 

見にくいが、昭和16年8月撮影の写真には「五反田 雪ヶ谷」とある。そして、

 

 

こちらは昭和20年撮影の写真。「雪ヶ谷大塚」とあることから、上述の議論の証拠写真として示しておく。

 

話題戻って、昭和18~20年の間、東急においては二度駅名の変更が実施されており、仮に「雪ヶ谷」が他の駅と同時に改名したと推測すると、このどちらかに該当するのではないかと考えられる。一つは昭和18年12月1日付けで東横線の「青山師範」と「府立高等」を「第一師範」と「都立高校」に改称したもの。もう一つは昭和19年10月20日付けで東横線の「綱島温泉」を「綱島」に、大井町線の「二子読売園」を「二子玉川」に改称したものである。後者の昭和19年の方は、いわゆる時局に鑑みというもので、温泉や遊園地といった娯楽系の名称を当局の指導で変更したものである(自由ヶ丘や多摩川園前が残ったのは地域の力が勝ったため)。となると、雪ヶ谷大塚は前者の昭和18年の方が妥当(東横線の駅名変更は学校名の変更だが、学校の名称変更よりもやや遅れて実施している)であり、よって昭和18年説が出てきたのではないだろうか(あてにならないWikipediaでは昭和18年12月とあるが、まさにこの推論からだろう)。このことは、改称年月日がはっきりしないことからも裏付けられると考える。つまり、消極的な「東京横浜電鉄沿革史」の利用である、となるわけである。

 

最後の最後を推測で片付けてしまうのは心苦しいが、おそらくは以上のような流れとなるのではないだろうか。

 

それにしても、いい加減な情報が流布されているものである。専門家でもない私が、多少調べただけでも専門書と称されるべき書籍の記述が誤りを多く見つけることができた。いったい、何を調べてものを書いているのか? 執筆者によく話を伺ってみたいものである。

 

最後に。昭和4年当時の3,000分の1地形図が東京市域拡張時における町名変更地図に活用されていることがわかり、当該部分を見にくいが肝心な部分を以下に示しておく。

 

 

ご覧のとおり、奥沢線が分岐していた頃の雪ヶ谷駅はかなり北側に位置し、巷間言われているように「雪ヶ谷駅跡」として紹介されることの多い場所にある。ただし、これまでの議論から明らかなように、ここは二代目雪ヶ谷駅の場所であって、初代雪ヶ谷駅は現在の雪が谷大塚駅とあまり変わらない場所に位置していた(雪が谷大塚駅中原街道口の位置は、初代雪ヶ谷駅の中原街道接続口とほぼ同じ場所)。

 

以上、大変長くなったが、これで雪が谷大塚駅の歴史を終える。……って戦前までか。戦後はほとんど変わってないし、あえて挙げるなら、昭和41年1月20日雪ヶ谷大塚から雪が谷大塚に改称くらいのもの。ということで、今度こそこれにて完結。

 

今度こそ、書いていながら追記。よくよく考えたら、雪ヶ谷駅と調布大塚駅が合併して雪ヶ谷大塚駅とならず、10年近くを経て唐突に雪ヶ谷大塚駅に改称したという最初の疑問には、まったく答えられていない。これについては、今後の宿題としておこう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

年度末にしては珍しい、暦どおりの三連休。図書館などで課題を調査してきた。課題とは前回に示したとおり、

  1. 開業時からの駅位置等の変遷を探るため、関係する地図群の収集・確認。
  2. 社史や各種文献からの駅の歴史(特に昭和25年以前)。
  3. 路線図、切符等の駅名表記。
  4. 写真など。

である。

 

これまでも各種文献などを眺めてはきたが、漫然と見てきた部分もあることから、上記目的を持って改めて確認すると、次のようなことを確認できた。

 

1に関連して

当Blogでもいくつか地図(部分)を示してきたが、これ以外にもいくつか確認したところ、駅の位置は定説どおり、「開業時→奥沢線開通時→新奥沢線廃止後しばらくして」と、計二回の移転が行なわれていることが確認できた。

 

2に関連して

社史では、決定版と位置づけられる「東京急行電鉄50年史」を確認。今更だが、雪ヶ谷大塚駅への改名は雪ヶ谷駅と調布大塚駅が統合された昭和8年6月1日と数か所で記されており、昭和8年雪ヶ谷大塚改名説の典拠は「東京急行電鉄50年史」と考えられる。確かに社史を典拠としたくなるのは私も同じで、まさか記述が誤っているとは考えようもない。しかし、残念ながらこれは事実で、単なる誤植ではない完全な誤りも多く含まれていた。とはいえ、多くの誤りの責任は執筆者にあり、関係した大学教授あたりのレベルの低さが根源だろう。社史とは、後世にも長く残るものなので、誰に監修を任せるかというのが非常に重要だと認識できたのは大きな成果だった。

 

最近の公式資料である「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」(監修 関田克孝。発行所 東急エージェンシー出版部)では、P9の年表には「昭和8年6月1日 池上線「調布大塚」と合併し、「雪ヶ谷大塚」と改称」とあるが、P43の駅説明には「昭和8年6月1日調布大塚と統合。昭和18年雪ヶ谷大塚に改称」とあり、相矛盾した表記が併記されている。公式資料ですらこういう状態なのだから、この問題の根の深さがわかるというものである。

 

 

ただ、この書籍には重要な写真が掲載されている。それはP42右上にある昭和16年8月撮影とされる写真で、電車の先頭部分に「五反田 雪ヶ谷」とあるもの。そしてP43左下にある昭和20年撮影とされる写真には、電車の先頭部分に「雪ヶ谷大塚」とあるもの。家人曰く「単に文字を書くスペースが足りないから省略してるだけじゃない?」というが、昭和16年8月時点では「雪ヶ谷大塚」ではなく「雪ヶ谷」表記が電車の行き先表示にあり、昭和20年時点では「雪ヶ谷大塚」とあることは、昭和18年改名説を裏付ける重要な証拠であるように思う。

 

3に関連して

そして路線図や切符については、ポイントとなる昭和8年6月1日~昭和19年頃までのものは、あるにはあるがどうにも不可思議なものが残っていた。まず、路線図だが、昭和10年代初期と思われる目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄発行の路線図には、池上電気鉄道という他社路線からか、池上線の情報に疑問符が付けられる。以前話題にした「慶大グラウンド前」駅は「慶大グランド」あるいは「慶大グランド前」と表記されているし、今回焦点としている「雪ヶ谷」駅関連については、表記は「雪ヶ谷」駅となってはいるが、「調布大塚」駅が残されている等、昭和8年6月1日に「調布大塚」駅と「雪ヶ谷」駅が合併したことすら否定するものとなっている。ちなみに昭和8年6月1日に改名された「御嶽山」駅(以前は「御嶽山前」)については、正しく改名後のものとなっている。

 

なお、昭和18年発行の「東京横浜電鉄沿革史」に記載される路線図では「調布大塚」はなく「雪ヶ谷」のみとなっているが、「雪ヶ谷大塚」という表記はどこにもない。「雪ヶ谷」表記は路線図のみならず、営業報告等にも掲載されているので、本書の記載を信用するならば、昭和18年直前まで「雪ヶ谷」駅だったとしか読み取れない。

 

一方、切符については残念ながら、現時点では当該期間のものを発見することはできなかった。引き続き、要調査である。

 

4に関連して

写真については、先にふれたように「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真はあったが、これをもって完全な証明とはなお言い難い。今後も引き続き、資料を収集することになるだろう。

 

以上、調査経過についてお伝えした。そろそろ別ネタに…。